天運 第6章 人材派遣ビジネスから アーク警備システムの創業へ

天運 道は開ける                           嶋崎 八洲男


第6章  人材派遣ビジネスからアーク警備システムの創業へ

     

1   いまも「石橋語録10か条」を実行
2   第2の事業として警備業に着目
3   アーク警備システムの誕生
4   ついに工期2年、450万円の仕事を受注
5   春山ひろし君との出会い
6  「3人のお客様」に喜ばれる警備をめざして
7   大小田本部長の下、陣容もととのう

 

“ 石橋語録” は今も座右にある


 

 「ノアの箱舟 (ア ーク)」から〝アーク〟と名付けた人材派遣業はバブル崩壊で一転危機に。第2事業として警備業に注目するが検定試験の壁…突破力でなんとかスタートしたものの待っていたのは大変な不景気…それでも営業力で大工事の受注に成功。〝3人のお客様〟を大事にすれば仕事は途切れない─。

 


1 いまも「石橋語録10か条」を実行

 昭和63年9月、私は13年間勤務したセブン-イレブン本社を退社し、翌10月に株式会社アーク・コンサルティング・ジャパンを創設した。
 事務所は渋谷区幡ケ谷に置いたが、「アーク」の名の由来は2つある。
 1つは、NTT の電話帳で「ア」が一番先に掲載されるからであり、2つ目は「ノアの箱舟」にちなんだのだ。
 いうまでもなく「ノアの箱舟」は、旧約聖書『創世記』の洪水物語に出てくる舟のことだ。義人ノアは、人類の堕落に怒った神の命を受けて箱舟をつくり、家族や動物たちと乗りこんで大洪水(ザ・デルージュ)を生き延び、人類の新たな祖先になったといういい伝えがある。
 私はキリスト者ではないが、アークに入社した従業員は「全員がどんな不幸や災難に遇おうと救われる」という願いと確信とから、この名を付けた。資本金は1千万円、メインバンクは三井銀行(現三井住友銀行)新宿西口支店であった。
 私は独立にあたって、セブン-イレブン本社の法務、財務、経理の各本部長から温かい激励やアドバイスをいただいた。メインバンク以外にも、司法書士の富田先生、弁護士の飯塚先生など専門家のご紹介を受けた。
 さっそく三井銀行(現三井住友銀行)新宿西口支店の支店長室で、石橋正通支店長と会社経営の根幹について話しあった。
 石橋支店長は、中小企業の経営を身近に見て、肌で感じてこられた長い経験から、多くの成功した会社と失敗した会社について語ってくださった。私はこのときの話をメモに取り「石橋語録」として大切にし、現在もこの語録を実行し、検証しつづけている。
 それは以下のとおりである。
(第1条) 事務所はいまより大きくするな。固定費を増やすな。
(第2条) 在庫をもった商売はするな。(人も在庫と思え)
(第3条) 出資するな。借金するな。借金しないと経営ができないなら会社を解散しろ。
(第4条) 銀行にペコペコするな。銀行を有効に活用しろ。支店長に頭を下げさせて、向こうから来社させる会社経営にしろ。
(第5条) 現金回収は一時も早く、支払いは1日でも遅くやれ。
(第6条) 会社に有益となる人材や業者を選別し、交流を深めよ。1日は24時間しかない。時間を無駄に使うな。
(第7条) 会社に必要な机や椅子はひろってこい。リサイクル商品で安く買え。出金は1円でも少なくしろ。ケチに徹せよ。
(第8条) 年間目標(計画)を立てて実行、検証せよ。
(第9条) 会社の理念、コンセプトを明確にし、徹底的に実行せよ。
(第10条) 会社の利益を出せない社長は失格! 貪欲に利益を追求せよ。甘い考えは命取りになる。
 ─以上であった。
 ちょうどこの時期はバブル絶頂期で、銀行はどこの会社にも貸付融資を行い、各社が競ってビル等の不動産を買いあさっていた。だから石橋支店長から借金するな、銀行にペコペコするなとのアドバイスをもらって、驚いた。
 この人は変わった人だな、でも本当のことをいっているなと私は感じた。おかげでアークは、バブル期の被害をまったく受けることはなかった。
 それ以来、20年にわたって石橋支店長とは長いお付き合いがつづいている。そして昭和天皇がご逝去されて元号は〝平成〟に変わり、私は本格的に事業を展開していく…。

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2 第2の事業として警備業に着目

 平成元年、アーク・コンサルティング・ジャパンは本格的にスタートした。
 日々の取引銀行として、当時開設されたばかりの、八千代信用金庫幡ケ谷支店にも口座を開いた。当時の望月支店長から「八千代会」に入会しないかとの誘いを受け、私はいわれるまま入会した。
 参加企業は50社ほどで、会長の春山建設の社長を筆頭に、年商数10億円をほこる地元企業や、社歴50年以上の老舗が名を連ねていた。わがアークにはそのとき、まだ100万円の売上もなかった。
 しかし、こんなエピソードもある。
 八千代信用金庫幡ケ谷支店開設2周年のお祝いに参加したとき、支店の行員に、
「支店長に喜んでいただくために、預金をしたいのだが、振り込み処理でよいか」
 と聞いてみたら、行員は、
「現金で直接、支店長に手渡すほうが、より喜びも大きいと思いますよ」
 とアドバイスしてくれた。
 私は住友銀行(現三井住友銀行)渋谷支店から2千万円を引き出し、バスを利用して幡ケ谷で下車し、支店長に直接手渡した。
 非常に喜んでいただいたのは、いうまでもない。はじめて現金2千万円を紙包みで運んだのだが、その途中、いつ盗まれるかと不安でいっぱいだったのを、つい昨日のことのように思いだす。
 ともあれ「八千代会」に所属し、毎年開かれる箱根・熱海などでの1泊懇親会では、徐々に各社の社長とも知り合いになり、またゴルフ部会にも参加して、いまに至るお付き合いが始まった。
 そのとき私は46歳で、会で最年少の社長だった。これ以降「八千代会」は、私の人生と仕事の両方に、大きく影響していくことになる。
 平成4年にはいると、日本の景気はますます悪化していった。
 セブン-イレブン各店舗の営業にも厳しさが出はじめ、アークが主力とする人材派遣事業の注文が激減した。店舗の求める人材は、各店頭での「パート募集」広告で簡単に満たされるからであった。
 同時に便利屋(またその周辺の)事業も激減した。景気の悪化が生活を直撃し、ニッチ(すきま)産業への余裕を奪っていたからであった。
 これまで月2回はあった床清掃の注文が1回に減り、やがて2か月に1度となっていった。当然、会社の従業員数も日ごとに少なくなっていき、私は会社存続に危機感をいだくようになった。
 第2の事業を早急に確立しなければ…との思いが、日増しに強くなった。
 その当時、セブン-イレブン各店舗は「万引き」「品減り」「強盗」「暴走族」等に悩まされ、私にもその対応策の相談が相次いでいた。
 アークには、防犯カメラ・メーカー(日立、松下、ネイチャーなど)と提携し、リースで防犯カメラを設置する仕事も増えていた。私は第2の事業としての警備業を、ばくぜんと考えるようになっていた。
 これには伏線があり、アーク会員店のセブン-イレブン板橋徳丸店の小島オーナー(当時)が警備業を始めていた。わたしは小島オーナーにお会いし、警備業のお話をうかがうたびに、その思いをつのらせていったのである。
 やがてそれが本気になり、私は小島オーナーに相談してご忠告を受けた。それは、
①免許が必要であり、警察OB の力添えが欠かせないということと、
②政治家の力添え(コネ)も必要─との2つであった。
 私にはそのいずれもがない。
 しかし、セブン-イレブン時代に「万引き」「品減り」「暴走族」対策は、さんざん手掛けた仕事でもあり、深夜パートさんの仕事ぶりも含めたコンビニ経営の問題点をチェックし、オーナーさんにレポートを提出して、その解決方法を提案する専門の警備業(そうした警備業はなかった)なら、必ず喜ばれると確信した。
 さっそく東京都警備業協会に電話し、どうすればいいかを相談したのだが、私はその厳しさに愕然とする。

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3 アーク警備システムの誕生

 話はさかのぼるが、昭和37年に日本で初めての警備会社が生まれた。
 昭和39年の東京オリンピックでは、その警備を請け負った会社が話題となった。宇津井健主演の『ザ・ガードマン』がテレビで放映され、警備業の人気は高まり〝雨後の竹の子〟のように警備会社が誕生した。
 しかし、他方、安全・安心を守るべき警備会社に暴力団がはいりこみ、警備員の不正、強盗、現金輸送中の盗難事件が多発した。それらのことから昭和47年『警備業法』が制定され、年々厳しくなり、だれでも簡単に警備業を始めることが難しくなった。
 すべて公安委員会に書類を提出し、警察が役員を調査し、暴力団関係者ではない、または過去に犯罪歴がない…などの基準で許可されることになっていた。そのハードルの1つが講習を受けて、検定試験に合格しなければならないという規定であった。
 平成4年6月、私は東京都公安委員会の代行を行っている東京都警備業協会に電話をした。
「警備業を始めたいので、講習と試験を受けたいのですが」
 と話した。受け付けの事務員は、
「東京都警備業協会に所属する会社の受講者が最優先です。1回の講習200名に対して500名の申し込みがはいっておりますので、協会会員でない方は無理です」
 と、ツレなく答えた。
 途方にくれたが、これぐらいで引き下がっていては会社経営はできないと、再度協会に電話をした。事務員さんの返答は同じだったが、私は上司に代わってほしいと懇願し、ようやく事務局長につながった。
 私はしゃべりまくった。
「私は警備会社を新しく設立し、日本の安全・安心な社会に貢献したいのです」
 ─と。
 その熱意が通じたのか、事務局長からは「わかりました。講習を受けてください。試験も受けてください」との返答があった。
 社長として、多くの壁が立ちはだかるが「1歩も引かず、突破する」という大きな体験をし、多くのことを学んだ。
 平成4年9月、やっと講習に参加できた。
 朝8時から夕方5時までのたっぷり8時間、1週間ぶっつづけの講習はつらかった。
 いまだからはっきりと分かるが、警備業には知識、内容とも幅広いレパートリーがあり、憲法(基本的人権)や刑法、刑事訴訟法また遺失物法など、関連する法律知識も多岐にわたっていた。
 はじめて聞くことも多く、隣の好青年川上一夫さんに分からないことを聞きながら、警備と業界の勉強をつづけた。川上さんは当時、30歳、これ以後親しくなり、私は大変お世話になるのである。
 いま考えてみれば、川上さんもまぎれもなく、私の「運命の1人」であった。いままでも、そしてこれ以後も、私には多くの「運命の人」との出会いがあるが、これはじつに不思議の一言に尽きるとおもう。本当にありがたいことである。
 試験はなんとか合格した。
 200名中の6割、120人のなかの1人にはいっていた。うれしかった。これで警備業ができる…。安堵感が全身を満たしていった。
 そして私は平成5年4月、代々木警察署に届け出た書類すべてのチェックが終わり、晴れて東京都公安委員会認定1727号の許可書を受け取ることができた。株式会社アーク警備システムの誕生であった。

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4 ついに工期2年、450万円の仕事を受注

 しかし、バブルもはじけて世は大変な不景気であった。
 株価は3万円から急落し、半値の1万5千円あたりを低迷していた。あらゆる業種で倒産が続出し、大手の建設会社でも一部上場の富士工など、多くの建設会社が倒産した。
 セブン-イレブン店舗の巡回パトロール警備を計画し、加盟店のオーナーからも最初は
「是非やってほしい」といわれた私の計画も、軒並み「保険で対処できるから必要ない」
と断られる始末であった。
 営業のやり方を、建設現場の車両誘導警備の受注へと変更せざるを得なくなった。
 警備員の募集を求人広告誌『フロムA』に掲載した。
 不景気であったことと、新しい警備会社ということで100名以上の応募があり、ビックリした。面接の結果、6人を採用し、幡ケ谷駅近くの小畑酒店の2階の7坪を借りて、警備のトレーニングを始めた。
 私は警備の経験がないので、講習のとき隣にすわっていた川上一夫さんに来てもらい、1から指導してもらった。毎日6人に日当を払いながら、早く仕事をとってこないと行き詰まる、との危機感にさいなまれつつトレーニングをつづけた。
 3か月を過ぎても仕事はまったくない。
 6人の警備員は1人辞め、2人辞め…と、結局1人だけが残った。60歳の須賀警備員と私の2人だった。須賀警備員は朝から夕方までテレビを見ていた。ときには口からよだれを垂らして昼寝をしていた。
 私は建設工事がスタートする現場を見つけては、電話をかけまくった。
「アーク警備システムの嶋崎です。工事中の車両誘導警備の営業の電話です。ぜひ会ってください」
 所長さんや監督さんに、そうお願いをした。
 しかし、よい返事は1件もなかった。今日もダメかと、須賀警備員とため息をついた。
 会社を設立することはだれでもできるが、従業員に給料を支払い、仕事を受注しつづけることはたやすくはない。その難しさをひしひしと感じながら、
「必ず良くなる、努力すれば必ず道は開ける」
 と、おのれにいい聞かせては、必死の営業をつづけた。
 設立からの半年は、あっというまに過ぎた。
 神はやはり私を見放さなかった。私の自宅(府中市押立町)から京王線の武蔵野台駅に歩いて出勤する途中に、新しい建築現場ができた。施工会社は野村建設工業、野村コーポレーション建築計画の立て看板が出た。
 この物件の隣に公団・車返団地があった。私はかつてそこ(1500世帯、約3千人)に住んでいた。しかも7年前、私はその団地の自治会長をやっていた。
 すぐに野村建設工業に電話し「所長さんに会いたい」と頼んだ。
「車返団地の元・自治会長をやっていたアーク警備システムの嶋崎です。工事中の車両出入誘導と歩行者の安全を確保する仕事の警備の営業です」
 と話した。
 神田所長から「至急お会いしましょう」との返事があった。翌日、工事現場の事務所に行くと、野村コーポは工期約2年の大型物件であり、警備の予算は400万円以上とのことであった。
 しかも、「嶋崎社長は公団・車返団地の自治会長をやっておられたとのことで、多くの人脈がおありでしょう。野村建設工業は野村證券グループの会社で、大阪が地盤です。こちらでは土地勘も少ないので、アーク警備さんを検討したいと思います」といわれた。
 少し期待がもてた。数日後、会社の留守番電話に「アーク警備システムを使うことに決定したので、会社の印鑑をもって事務所に来てください」との神田所長のメッセージがはいっていた。やっと努力が報われたと飛び上がった。
 事務所に行き契約書を交わした。
 工期は約2年、警備金額は450万円であった。
「毎日、警備員1人常勤、お願いします。生コン(コンクリート打ち作業)のときは3人以上が必要です。よろしくお願いします」
 といわれた。
 そのとき、わが社の警備員は60歳の須賀さん1人しかいない。私と合わせても2人だけ…。はたして責任を果たせるのか。サインをするとき、私は不安で手が震えた。
 しかし、どうにかなる。やるしかない。よしやろう。
 一歩前へ─、の精神で私は決断し、印鑑を押した。いまこうしてアーク警備システムがあるのも、そのときの決断があったからである。

 

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5 春山ひろし君との出会い 

 しかし着工は1か月後である。この間にどうにかしなければならない。警備員が1人しかいない警備会社として、私にはあせりがあった。
 設立時に採用し教育もしたが、退職していた5人にも連絡をとった。そのなかの1人、塩川君は「警備の現場がとれた。なんとか帰ってきてくれないか」という私の要請に、タイミングよく「いまの会社は自分に合わないので、辞めようと考えていたところでした」
と答えてくれた。
 塩川君は警備経験もあり、即戦力になる頼もしい男で、その後、10年以上、アーク警備システムの中心的存在として活躍してくれた。小林君も帰ってきてくれた。私を入れて4人になった。私は「よし、やれる」と自信を深めた。
 建設会社(施工会社)は、近隣住民に一番気を使って工事を行っている。
 人脈があれば、警備の営業はできるとわかった。私の営業は少しずつ自信がつき、つづけて調布の(株)創建の現場2か所のほか、福田組や山田建設などの現場を受注することができた。警備員の採用を急がなければならない状況になっていった。
 私は毎日、朝8時から警備の現場にはいり、終わってから事務所に帰り、募集や請求書の発送をしては、また翌日の警備配置や手配と、1人で何役もこなし、文字どおり寝る暇もなく働いた。
 しかし、私には〝幸運の女神〟がついているようで、本当に困ったときには「お金」も「協力者」も「人財 」も、次々と現れることが多くなってきた。
 平成6年の初春、ついに神は私の前に1人の「人財 」をよこしてきた。
 春山ひろし君が、会社にひょっこり現れたのである。春山君は35歳の売れない元歌手。独身のイケメン青年であった。かれは私に、
「社長、私を使ってください。なんでもします。社長に命あずけます」
 と断言した。
 私はすぐ採用した。
 春山君とは、かれがセブン-イレブン西荻南店の店長時代に知り合ったのだが、かれはその前にホストクラブのホストや、赤坂のクラブの店長など、接客の最前線で、かれなりの苦労や経験をしてきていた。
 性格も明るくすなおで、私もセブン-イレブンの巡回時に印象に残っていたのだが、かれも私を覚えていて、いまこうして頼ってくれたのであった。
 私はすぐに春山ひろし君を、契約したばかりの川田工業(一部上場企業)亀有現場に入れてみた。警備経験はまったくなかったが常駐警備である。これが大成功であった。
 若く、イケメン、気はやさしく、気くばりは十分、目くばりも万全、しかも話し上手で…所長もすぐに春山君を気に入り、出入り業者の評判も上々であった。
 大きなよく通る声で、だれにでも挨拶をするので、子どもたちともすぐに仲良くなり、小学校の女生徒たちは「カッコいい」と声をかけて応援してくれた。
 工事現場の近隣の〝おばちゃん〟達は、ほどなく午前10時と午後3時に、毎日お茶とお菓子を届けてくれるようになった。私は驚くとともに「警備とはなにか─」「警備業とはどうあるべきか…」を学んだ思いであった。
 警備とは、経験や技量ではなく(もちろん、それらは必要だし、あるにこしたことはないが)基本は「人間性なのだ」という確信である。
 たとえ素人であろうと、人間としての節義と礼法を心得てさえいれば、警備はできる、十分に「プロ」たりえる─という信念であった。
(ただし後年「その獲得」は、経験・技量よりはるかに難しいものだということを知ることになる。春山ひろし君の能力も「天性のもの」であり、ゆえに、かれとの出会いは、まぎれもなく「天運」だと思うゆえんでもある)。
 やがて工事が完了し、警備も終了する日、近隣住民の方から「よくやってくれた」とおほめの言葉と「せんべつ」が出た。所長・監督さんは、近隣住民の信頼をかちえて、工事の安全・安心に寄与した春山ひろし君に、大いに満足してくれた。
「次の現場もぜひアーク警備システムでやってほしい」
 との意向が、向こうから伝えられた。
 私は─工事現場の警備で喜ばれる警備をすれば、仕事は次々とはいってくる─ことを学んだ。これを「アーク警備システムの基本理念」にしたいと思った。このことを警備員教育に徹底しようと決心した。

 

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6 「3人のお客様」に喜ばれる警備をめざして

「3人のお客様」に喜ばれる警備をしよう。
・その1人目のお客様とは「近隣住民の方々」であり、まずその方々に喜ばれよう。
・その2人目のお客様とは「建築業者(施工業者)の所長・監督」に喜ばれよう。
・その3人目のお客様とは「工事現場の出入の業者」の方に喜ばれよう。
 ─と、そう思い、警備員の教育をつづけた結果、不景気な時代にアーク警備システムは、驚異的な伸びで成長することができた。
 大手の建築会社の倒産が続出し、警備会社の仕事も急激に減少するなか、わが社の年商は、平成5年にスタートしたときが54万円だったのに、6年には816万円、7年には3400万円(対前年伸び率400パーセント)、8年には5800万円(同140パーセント)、そして平成9年には7000万円(同146パーセント)と、大不景気の時代と逆行して伸びていったのである。
 セブン-イレブン・ジャパン時代(鈴木敏文会長)に私が学んだ「お客様の立場」で考え、行動し、お客様に喜んでいただく商売を実践してみた結果は、まちがいなかった。
 もちろん、その一方で問題も〝山のように〟起きてきていたが…。
 短期間で仕事量が激増したため、警備員を採用しつづけて現場に送りこんでいた。
 建築現場から朝8時に「警備員が来ていない、どうなっているんだ」と強い口調の電話がはいり、私が飛び出して「申し訳ありません」とペコペコ謝りながら、その日を乗り切ることも多くなった。
 現場からのクレームは毎日のようにはいった。
「酔っぱらって警備に来ている。すぐ取り替えろ」「立ったまま居眠りをしている。危ないから代わりの者を出せ」「警備員同士で喧嘩している。責任者すぐ来い」「通行人と口論している。責任者はだれだ」…等々、毎日のクレームやトラブルの処理で、私は気の休まるときもなかった。
 病死する者、自殺する者、暴力金融から追われている者…までいた。
「山口組だ、山田を出せ。隠すとお前らもどうなるかわからんぞ」と、おどされたり、暴力事件を起こして刑務所に入れられたり、車中で痴漢を働き、責任者として代々木警察に出頭させられたり…私は文字どおり〝針のむしろ〟の毎日であった。
 そのつど警備員のレベルの低さにあきれ返っていたが、その後、改めて採用と教育を強してレベルアップを図った結果、本来のお客様に喜ばれる警備会社となってきた。

 

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7 大小田本部長の下、陣容もととのう

 平成19年6月には、セブン-イレブン・ジャパンを退職した大小田宏彌氏が入社し、常務取締役・警備本部長となり、お客様に喜ばれる警備のレベルはさらに高まり、それにつれ良い話も徐々に多くなってきた。
 警備員の総数が50人を超えた平成20年2月には、当社の警備員小林敏宏氏(警察OB)が叙勲受賞者となり、天皇陛下の前での勲章伝達と拝謁を賜り、大変名誉なできごととして、アーク警備システムへの信頼は大いに高まった。
 また、同じ20年の12月25日、NHK が夕方7時と9時の全国ニュースで2回、わが社を取り上げ、日本テレビも当社を放映した。
 不景気で日本中が派遣切り問題に揺れるなか、警備の注文が追いつかずに人手不足で困っている会社がある─との趣旨で放映されたものであった。
 その反響は大きく、全国の知人、友人、またアメリカなど外国からも、多くの電話や手紙が会社や私の自宅に寄せられた。 私の気持ちは改めて引きしまった。
 この評判、その責任…しかも、日本社会の安全と安心は、むしろ日ごとに悪化しつつあるのではないか。だとすれば、われわれ警備会社の使命が、いよいよ重くきびしいものになるだろうことは必至であった。
 平成24年の現在、警備員数は100名を超えて、アーク警備システムは警備業界の中堅的企業に成長している。組織も確立し、息子の知実が社長、私は会長となり、会社の行くすえを見守っている。
 多くの建築会社からの信頼もかち得た。安心・安全で、社会に貢献できる警備会社として、今後とも全社をあげてがんばってまいりたい。