天運 第5章 第3の奇跡

天運 道は開ける                           嶋崎 八洲男


第5章  第3の奇跡

     株成金と「セブンの子」

 

1   第3の奇跡の始まり
2   お客様とはなにか
3   60万円の投資が1億円の資産に
4   ハワイは天国…仕事で来ていることもつい忘れ…
5  「嶋崎軍団」が結成される
6  「24時間の男」 
7   人材ビジネスに目覚める

 

 
初めての店長を務めたセブンーイレブン星ヶ丘店。
当時の店構えも貴重な資料
 


 

 セブン‒ イレブンに入社した私に「第3の奇跡」が起き始める。がむしゃらに働き続け、セブンは創業6年目で東証に上場した。海外視察旅行にも選抜され「嶋崎軍団」は常に社内断トツの実績。若きエース・井阪隆一さん(現社長)も入って来て…そんなとき思いもかけぬ再会が、また運命を激変させる。


1 第3の奇跡の始まり


 昭和49年10月、日経新聞に「セブン-イレブン幹部社員募集」というイトーヨーカ堂の広告が掲載された。
 半年前の5月25日、江東区豊洲に第1号店(元酒屋・山本茂商店の2代目山本憲司FC オーナー)がオープンしたことは前章にふれたが、その成功は大きく経済界・マスコミの話題をさらっていた。
 私はその経緯をじっと見つめていた1人だが、日本における「コンビニの成功」を、いよいよ確信しつつあった。募集広告を目にして、迷わず応募履歴書を書いたのはそのゆえであった。
 私は第2期生として採用された。
 あとで聞いた話だが、このときの応募者は700人以上もあり、採用はたったの7名であったという。100倍の競争率だ。「試験運」(もしそういうものがあればだが)に強いのも自分の特徴か…。
 明大にしろ、クラリオン(帝国電波)にしろ、前職の社会調査研究所にしろ、ここぞというときの試験突破力には、自分でも驚くことがある。
 ともあれ、このときから「第3の奇跡」が始まり、私の運命はまた大きく好転していくのである。
 セブン-イレブンとの出会いは、また私の「お客様」との出会いでもあった。
 すべてはお客様の立場で─。私の一貫した、ただ1つの経営思想は、このときつぼみとなったといっていいだろう。
 アメリカ生まれのセブン-イレブンは、その当時、全米に4500店舗展開しており、テキサス州ダラスにその本社があった。鈴木敏文社長以下、日本のセブン-イレブン創業者は、このアメリカ本社に飛び、コンビニエンス・ストアの経営ノウハウを、1から勉強していた。
 当時、母体のイトーヨーカ堂(伊藤雅俊社長)はスーパー業界売上第8位で、1位のダイエー、2位の西友、3位のニチイに比べて、大きく出遅れていたのであった。
(西友もこのころ「コンビニ」の研究を始めていたが、結局、取り止めていた。それが後の業界参入に大きな遅れと支障となった)。
 翌年の昭和50年2月、私は(株)社会調査研究所を退職し、イトーヨーカ堂に入社した。
 大学卒業後、はじめての勤務先であり、結婚の仲人までしてくださった万里小路社長や、苦楽をともにした中西本部長など、人にも仕事にも数々の思い出の残る会社であったが、未練はなかった。
 それらの方々はいまは退社され、会社はすでに大きく様変わりしていたからである。

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2 お客様とはなにか─

 入社した私は、イトーヨーカ堂の「セブン-イレブン担当」となり、そのための研修を受けた。直営店・オーナー店(FC 店)の別はもちろん、改めての会計知識から何千点にもおよぶ商品知識や、接客の基本についてであった。
 小学校時代から「小遣い稼ぎ」には自信とキャリアのある私だったが、「勘」や経験知に頼らぬその徹底したデータ主義(とシステム思考)には、深く心を打たれた。
 リテール(小売り)の原点を見る思いであった。
 お客様とはなにか─。
 その問いは、いいかえれば「人間とは、個人とは…」の問いにも通じていく。それはすなわち、私をきたえた明大「中野渡ゼミ」のテーマでもあった。
 セブン-イレブンには〝憲法〟ともいうべき「基本4原則」がある。
 ①鮮度管理
 ②売れ筋の品ぞろえ
 ③クリーンネス(清潔感)
 ④フレンドリーサービス(親身の接客)
 ─がそれだが、また、オーナーと本部とは、たがいに顧客関係にもある。それらを踏まえて、指導・巡回・管理する本部スタッフの役割は重大であった。
 研修後、私は単身赴任で福島県郡山市の(直営)虎丸店に3か月勤務した後、1年間相模原市星ヶ丘のセブン-イレブン星ヶ丘店の店長となった。
 はじめての店長であった。思い出に残る店は、ほかにも多々あるが、私のセブン〝初陣体験〟として、この2店は、それからも長く記憶に残った。
 一つひとつの、こうした段階的な経験を積みかさねて、私はセブン-イレブンの経営についての理解を深めていったのである。
 その後、私は店舗指導員(フィールド・カウンセラー= FC)となった。
 複数の店を同時に見る職責についたわけだが、アメリカ本部の担当者が来日すると、かれらと数か月をともにし、店舗巡回をしながら本場仕込みの指導を受けたりもした。
 理論と、こうした現場体験の両方から、私は「コンビニ経営」にたいする独自のノウハウを身につけていったのであった。
 いま思い返しても、当時の出店ラッシュは、すさまじいの一語に尽きる。
 満足に家に帰る暇もなければ、帰っても寝る間もなく残務の整理という仕事漬けの毎日であった。休日も出勤し、目を真っ赤にしながら開店準備をしていた。
 子ども2人(長男英彦と次男知実)を車に乗せて、土日も休まず店舗巡回し、指導員としての役割を果たしたことも、ざらであった。私や幹部社員たちのこうした努力の結果、セブン-イレブンは飛躍的に発展していくことになるのである。

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3 60万円の投資が1億円の資産に

 まもなく私は、イトーヨーカ堂の子会社「ヨークセブン」(昭和53年にセブン-イレブン・ジャパンに社名変更)に転属になった。
 相変わらず私は、新規開店につぐ開店で、文字どおり寝る暇もないほどの働きづめであった。しかし、比例して店舗数も順調に伸びていき、昭和50年2月、私は第2期生として入社した、その年の新規開店数が69店舗なのにたいして、翌年は200店舗、翌々年(52年)は375店舗、そして昭和55年の11月には、ついに出店数1000店舗を達成した。
 私が最初に担当した福島県郡山市の虎丸店は、昭和50年に始まった「24時間営業開始」の第1号店ともなった。
 そして、入社した4年目の昭和53年、セブン-イレブン・ジャパンは東証二部に株式上場した。
 創業からたった6年で上場したので、世間からは「小学1年生」が上場したと持てはやされた。その2年後には東証一部に指定替えした。当時の上場規則では、会社設立後5年以上と決められており、東証では「近年の最短新記録」と報じられた。
 入社3年目以上在籍の社員と加盟店には、上場前に株の割り当てが行われた。
 そのころ、私は株にまったく無知だったので、買いたくなかった。加盟店も、
「株を買わされるのはいやだ」
「お金がないから買えない」
 …などの声が多かった。
 当時の割り当て金額は、60万円くらいであったと記憶している。
 私たちには当然、そうした加盟店を説得するという仕事もあったが、ある加盟店は私の強いすすめで、しぶしぶ「子ども学資保険」を解約して、その資金を工面してくれたりした。
 セブン-イレブンの株価は、その後1万円を超えて、さらにまた無償増資を繰り返し…
と、株を買った人の資産は1億円を超えるようになった。
 私も加盟店も「株成金」になった。
 この出来事で、私は資本主義社会での「株の力」をつくづく実感させられた。
 このころから、私に幸運が近づいてきた。「第3の奇跡」が、実をむすび始めていたのである。
 当時はしきりに『セブン-イレブンの奇跡』と銘打ったような本も出版され、セブン-イレブンは、世間から否応なく認知され、注目されるようになっていった。
 また、セブン-イレブンは「親会社イトーヨーカ堂をもしのぐ孝行息子」と評価され、その点でも異色であった。
 多くのビッグ・ストアが、子会社の経営不振や赤字に足を引っ張られ、あるいは容易に一本立ちできない状況を「重荷」としていたのに対して、イトーヨーカ堂にとってのセブン-イレブンは、類のない貢献をするようになっていたからである。
 そうした状況のど真ん中で、私はますます活躍していくのである。

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4 ハワイは天国…仕事で来ていることもつい忘れ…

 ここで、セブン-イレブン1号店開設時の逸話を紹介しておきたい。
 昭和48年11月、イトーヨーカ堂が米国のセブン-イレブンの本部「サウスランド社」と提携することを決めたころ、当時はまだイトーヨーカ堂本社内に間借りしていたヨークセブンに1通の手紙が舞いこんだ。
 差出人は、東京都江東区豊洲の「山本茂酒店」の2代目・山本憲司氏であった。
 かれは専門誌でヨークセブンを知って、
「これからの小売業は、これしかない」
 と決意し、自分から売り込んできたのだった。
 それからわずか半年、彼の熱意に押されるように、ヨークセブンは山本茂酒店を「1号店」として開設した。
 会社は本部直轄の「直営店」を開設しようとしていたが、当時専務であった鈴木敏文氏が、多くの反対を押し切って、フランチャイズ店の開設を認めたのであった。
 結果的にはこれが大成功で、初年度の売上は大きく予想(1億2000万円)を上回る1億8300万円、3年目(昭和52年)には3億2000万円を超え、山本茂商店は酒屋時代の3倍もの売上を記録した。
 セブン-イレブンの店舗数が、昭和54年には800店舗を超えたことは前に書いたとおりだ。そうした昭和54年、東証第二部に上場した年、入社3年目までの社員のなかから数名が選抜され、加盟店のオーナー様参加の「アメリカ西海岸とハワイ視察ツアー」が計画された。
 これは以後、毎年行われることになるが、私はこの最初のツアーに参加することができた。セブン本社から「─参加を命ずる」という辞令が出たのである。
 辞令とともに、出張手当5万円と目録を受け取った。
 私は、ほんとうに嬉しかった。セブン-イレブンに入社して、がんばった甲斐があったとつくづく思った。
 初めての海外出張旅行である。郷里の島根の田舎から出てきて、海外出張までできるとは、夢にも思っていなかった。このとき、この会社にはいって良かったと、ほんとうに実感したものだ。
 総勢およそ40名の一行は「成田空港」から出発した。
 到着1日目─。
 ロサンゼルスに着くと、すぐにアメリカのセブン-イレブンの店舗を視察した。つづいてアメリカの加盟店オーナーと、われわれ一行との懇親会が開催され、アメリカの実情に加え日米の違いなどを学んだ。
 アメリカのオーナーには退役軍人が多いことも驚きだった。その後、ロスの夜景を堪能し、素晴らしさに声を失った。
 次の日はディズニーランドを見学し、そのとき初めてジェットコースターにも乗った。
 命の縮む思いをしたせいか、私はその後、ジェットコースターには乗っていない。
 ただ本場のディズニーランドは、経営的(管理・マネッジメント)にも参考になることが多く、その後の私に大きな影響をあたえてくれているように思う。
 お客様のとらえ方や価格(料金)設定の仕方ばかりでなく、リピーターへの持続的なアピール・ノウハウなど、業種を越えて参考にできるところは多い。
 華やかなディズニーランドを後にし、3日目はハワイのワイキキに移動した。
 空港に着くなり、一行はかわいい娘たちの「ハワイアン・ダンス」に迎えられ、思わず相好をくずすことになった。レイの花飾りを首に掛けてもらえば、気分は一気に「ハワイアン・モード」である…。
 接待と観光をかねてとはいえ、アメリカ本土の2日間は、やはり勉強が中心であり、私たちにも緊張したものがあった。
 それが一転(ハワイは帰路でもあり)、炸裂するような笑顔となった。オーナー様たちと夜のワイキキを散歩し、かわいい現地の女子大生に誘われるまま、バーに行き、ディスコダンスを楽しみ…と、大いに盛り上がった。
「ハワイは天国だ…」
 とのぼせ上がり、仕事で来ていることもすっかり忘れる始末だった。

 

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5 「嶋崎軍団」が結成される

 当時のテレビ・コマーシャルに、
「~セブン-イレブンいい気分、あいててよかった」
 というのがある。
 子どもが口ずさみ、知らぬ人とてないほどの全国的な浸透を見せた。その年(昭和53年)の9月20日、「セブン-イレブン500店舗開店記念懇親パーティ」が東京プリンスホテル大広間で開催された。
 関係者2000人の集まる盛大なパーティであった。
 加盟店主(オーナー様)ご夫妻をはじめ、政官界、財界、取引先の招待客の間を縫うようにして、にこやかに挨拶してまわる当時の伊藤雅俊会長と鈴木敏文社長の姿が、私の脳裏にはいまでも焼きついている。
 近い将来の「流通業界の覇者」たるべく、その一歩を現実に踏み出そうとした瞬間だったのだろう。
 私もそのころはスーパーバイザー(FC =フィールド・カウンセラー)から地域マネージャーに昇進し、多摩地区(調布市、府中市など)はじめ浅草地区、新宿地区、江東地区等の都内各店舗を担当するようになっていた。押しも押されもせぬ中堅幹部である。
 ある日の朝6時前、私の担当する店舗から1本の電話がはいった。
「店が火事だ!」
 という。私は飛び起き、自宅のある府中から高速に乗り駆けつけた。
 原因は放火によるもので、店内は丸焦げであった。
 私は急遽、部下全員を呼び集め、セブン本社とも連絡をとりながら、すぐさま焼けた商品の撤去を行った。並行して、すぐさま新商品の納入と店内改修作業にも取りかかり、火災3日後には「再オープン」にこぎつけた。
 その間、私たちはみな、近所のサウナやカプセルホテルに泊まりこんで、身を粉にし、必死に働いた。
 後日、火災に遇ったオーナー様から、当時の鈴木敏文社長宛に、ていねいな感謝状が届いた。
「このたびはセブン-イレブンのすごさを実感いたしました。たった3日で再度オープンできるとは、まことに感嘆にたえません。感謝、感謝…でいっぱいです」
 私が溜飲を下げ、面目を新たにしたのはもちろんである。
 なによりも〝わが部隊〟の日ごろの努力が実った瞬間であり、その満足感に、私は心のなかで快哉を叫んでいた。これを契機に、公然と「嶋崎軍団」が結成され、セブン-イレブンの、さらなる飛躍の原動力となっていくのである。
 人脈も広がっていった。
 江東区担当時は、セブン-イレブン1号店豊洲店の山本憲司オーナーと友達になり、新宿地区担当時は、四谷店の齊藤源久オーナー(祥平館社長で現5店舗経営)と知り合い、多摩地区では清水ケ丘店の吉野敬之オーナーと懇意になるなど、各地区の有力オーナーとの関係もでき、今日の私の(心の)ビジネス・パートナーとなっていただいている。
 また、わが「嶋崎軍団」は、キャンペーンにもめっぽう強かった。
 時期・季節折々の「コーヒー」「おでん」「アイスクリーム」「スラーピー」「クリスマスケーキ」などのキャンペーンでは、全支社中いつもトップか上位を占めた。
 この「嶋崎軍団」のなかに、若きエース、青山学院大卒の井阪隆一さん(現社長)がはいってきた。
 井阪さんは私の強烈な指導を受け、加盟店のために、早朝から夜遅くまで店舗指導を行い、すばらしい成績を残してくれた。
 各店舗のオーナー様は、井阪さんを信じ尊敬するようになり、私も氏を頼もしく将来有望な部下だと、大いに期待していた。
 後述するように、私のほうが中途退社したために、その関係は一時的に途絶えたが、井阪社長に率いられたセブン-イレブンが、業界のリーディング・カンパニーとして、いまなお破竹の勢いにあることは、私のほんとうに喜びとするところとなっている。
 セブン&アイ・ホールディングスは、いまや日本の流通業界の代名詞であり、井阪社長も、これからますます重きをなすだろうことは間違いない。
 このころ、私に転機が訪れようとは、夢にも考えなかった。
 1人のビジネスマンとして、その人生は、セブン-イレブンとともにありつづけると、当然のこととして、そう考えていた。
 人間の運命とは、かくも面白いものなのである。

 

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6 「24時間の男」

 私がセブン-イレブンに入社(昭和50年)し、がむしゃらに仕事しているうちに、10年以上の年月があっという間に過ぎていった。
 出店店舗数も3000店を超え、セブン-イレブンは、日本経済新聞で日本の最優秀企業にランク付けされた。
 株価も東証一部市場で1万円を超えていた。
 日本はバブル契機の真っ只中(昭和61年12月~平成3年2月)で、景気は絶頂期であった。日本中がバブルに浮かれていた。私も例外ではなく、仕事の後は夜の六本木のディスコに出向いては、踊り三昧の日々を送っていた。(明大時代、何度挑戦してもダンスだけはうまくならなかった私がである!)。
 セブン加盟店の売上も順調に伸びていた。
「空白のマーケットを衝く」という会社の方針で、直営店で「24時間営業」の実験が始まった。結果は上々で、店舗売上高は160パーセントも伸び、実験の成功を見て加盟店の24時間営業化に拍車がかかったことも、また業績の伸びにつながった。
 私も「朝7時から夜11時まで」が一般的であった当時の加盟店を、1軒1軒訪ね、24時間営業に切りかえるよう説得してまわった。
 24時間化をどういう方法で実行するかは、試行錯誤の連続だった。
 いうはやすく…で、肝心のノウハウなど、どこにもないのである。
 オーナーの反応、深夜従業者の問題、商品供給体制の変更…などなど、乗り越えなければならない眼前のハードルは、至るところに山積していた。しかも、日常の激務をこなしながらの検討・立案は、大きな負担でもあった。
 しかし、そのノウハウも少しずつ私のなかで蓄積・確立されていった。
 それを惜しげもなく私は会議(FC・マネージャー会議)で発表していった。迷っていた他のマネージャーたちも、次第に私に賛成するようになっていき、いつの間にか、私には「24時間の男」のニックネームが付いていた。
 当初は、24時間営業に切りかえたら、
「深夜担当の従業員が辞めたとき、自分が深夜勤務をしなくてはならないのは荷が重い」というオーナーばかりであった。
 私は一人ひとり、「そのときは私がはいります」といって説得していった。
 それが功を奏し、24時間営業に切りかえるオーナーは徐々に増えていった。しかし日本中がバブルに突入すると、加盟店従業員の採用がまったくできない状況になってしまった。

 

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7 人材ビジネスに目覚める

 完全な人手不足が、日本中で同時に起きてしまった。
 セブン-イレブンも、その影響をもろに受けて、オーナーからは悲鳴の声が聞こえてきた。私はどうしたら解決できるか、どうすればよいかで日々考え、悩んでいた。
 そんなとき、前の会社((株)社会調査研究所:現(株)インテージ)でいっしょだった小林氏が、セブン-イレブンの本社に私を訪ねてきた。かれの話は、

「いま中国には、10億人以上の人間がいる。この中国から1万人単位の人を日本に入国させ、セブン-イレブンで働かせることを考えている」
 というものだった。日本の人手不足を解決するには、もってこいのアイデアだと、私は確信した。
 すぐに上司の宮川取締役に相談した。
 その結果、中国人を活用する実験を早急にやろうということになった。1か月後、中国の北京から10人(女性2名、男性8名)の若者が来日した。早速、早稲田店をはじめ5店舗を経営していた宇津木瑛オーナーや、中野新橋店の中山久史オーナーなど、都内の有力店に協力してもらい、受け入れていただいた。
 スタッフは各店舗の空き部屋を寮にし、食事は弁当の残り物などで済まし、また日本語習得のために日本語学校に通わせた。保証人には私や知人にもなってもらった。これでバブル期の人手不足は解消されると喜んだ。
 その10名のなかに、特に目の輝いている若者が2人いた。
 張家紅さんと李さんである。私は2人に特に目をかけ、今後中国から第2陣、3陣の留学生を受け入れた場合の、指導教育担当と通訳の仕事に就いてもらおうと考えていた。
 自宅にも何回も招き、食事をともにしては面倒をみていた。
 ところが約1か月が過ぎたころ、あるオーナーから、
「中国人の○○さんが出勤してこない。連絡もとれない」
 との電話がはいった。他のオーナーからも次々と同じような連絡がはいり、結局8名の消息がわからなくなってしまった。目にかけていた李さんも、その後アメリカ留学を口実にいなくなってしまった。
 1人だけ残った張家紅さんに、「なぜだ」と聞いたところ、かれらは他の中国人仲間と連絡を取り合い、どこそこの店の時給が5円高い、10円高いと知って、勝手にそこへ移ってしまったのだという。
 愕然としたが、中国人は義理や人情を理解しない、目先の打算で行動する国民性なのだと、そのとき理解した。そのこともあって、第2陣を受け入れたときは時給を少しアップした。

 張家紅さんは仕事もでき、セブン-イレブンの各店舗を飛びまわって、大いに役立ってくれた。私はかれらに仕事の指導をしながら、彼らから中国3000年の歴史の話を聞き、そのたびに中国への関心が増すのを感じた。頭のなかは次第に中国のことでいっぱいになり、一度中国大陸へ行ってみたいと強く思いはじめた。
 これからは中国との人材ビジネス事業が、大きく展開する日が必ず来ると確信した。
 同時にこの機会に、私は独立して事業家になりたいとの思いが、強くふつふつと沸き上がった。
 独立を決意したら、私の決断は速かった。
 思い立ったのは昭和63年6月ころで、その年の9月には退職を決意し、辞表を提出していた。会社のだれもがア然とし、信じがたい表情を私に向けた。
 当時、私はみなから「セブンの子」といわれていた。私もまたそれを良しとし、だれよりも会社を愛した。そんな私がセブンを辞めるとは…だれも、考えつくことではなかったのだろう。
 私はオペレーション本部に所属していたが、本部長の宮川常務取締役以下30名での送別会は盛大であった。べつの日には法務部の萬歳部長(現セブン&アイ最高顧問)のグループ、経理財務部の番司部長のグループ等々、各部との送別会がつづいた。
 特に嬉しかったのは、鈴木敏文社長(現セブン&アイ・ホールディングス会長)から社長室に呼ばれ、じきじきに、
「奥さんと一緒に頑張れよ」
 との温かいお言葉をいただいたことであった。いまでも胸が熱くなる。
 運命の出会いとは恐ろしいものである。
 あのとき…(株)社会調査研究所(現(株)インテージ)の小林氏が、セブン-イレブン本社に私に会いに来なかったら、おそらく私は退職はしていなかっただろう。私の運命はまた大きく変わることになった。