天運 第4章 〝〝負けてなるものか〟と日本最大の会社の最年少課長へ

天運 道は開ける                           嶋崎 八洲男


第4章  〝負けてなるものか〟と日本最大の会社の最年少課長へ

    

1   がむしゃらな飛び込み営業
2   最年少で課長に昇進
3   彼女こそ求めていた理想の女性だ
4   早く自分のものにしんさい。がんばるんよ…
5   二人の男性を天秤にかけた、私は悪い女です
6   失恋も癒えたころ、また一つの見合い話が…
7   横山家は「開運淘宮術」開祖の家柄
8  「コンビニの時代」が来ると直感


 

凛とした私。イザ社会人へ


 

持ち前の負けん気で、がむしゃらな飛びこみ営業に邁進して最年少課長に昇進。そして嫁探しも始まるのだが、私は相手の家に上がり込み、その手をにぎって押し倒し…と。やがて一途の恋も終わり、一生結婚なんかしないと決めた矢先、一枚の写真が私の運命を劇的に変えていくことになろうとは─。



1 がむしゃらな飛びこみ営業

  昭和43年の秋、中途採用の新入社員として、私は㈱社会調査研究所(現・(株)インテージ)に入社した。
 社会調査研究所は、時代の風を受けた伸び盛りの情報処理会社であり、まもなく業界や学界に、だれ1人知らぬもののない、文字どおり「日本一の情報調査分析会社」となっていく。
 情報処理にはコンピュータが欠かせないが、当時のコンピュータ世界を圧倒していたのはアメリカの巨人IBM であり、日本を代表する日立製作所や富士通、NEC さえ、まだその「下請け」といわれたころである。
 野村総合研究所や三菱総合研究所などの、いまをときめく総合シンクタンクも、スタートして日も浅く、信頼に足る企業としての社会的な認知には、やや距離があった。
 そのなかで社会調査研究所は、早くからコンピュータの活用に着目した独自の調査・営業スタイルで、新しい一時代を画そうとしていたのであった。
 私の配属先は「薬業情報研究室」といい、上司の中西室長とそのセクレタリー(秘書)のふたりに、実務スタッフは私ひとりだけの小所帯であった。
 最初の仕事は、薬業界の業界紙を中心にした新聞・雑誌の記事や情報のチェックと調査である。
 会社は全国で専属のアルバイトをやとって、毎日、薬局・薬店の売れ筋商品を調査していた。それをマンスリー(毎月)のレポートとして薬品メーカーに売るのである。
 仕事は順調に推移し、昭和45年に薬業情報研究室は「事業部」に昇格した。都内の薬局・薬店500店舗を組織化して、独自の薬局ボランタリーチェーンをつくり、その総本部になろうという戦略計画からであった。
 中西室長が取締役事業部長となり、私がその下の主任となった。
 当然スタッフも増えたが、私の仕事も増えるばかりであった。主たる仕事は、都内の有力薬局をまわり、会社が新設する「MIC ファーマシーグループ」に加入していただく営業である。
 時代の追い風を受けていたとはいえ、薬局・薬事事業自体は新しいテーマであり、都内の有力薬局に、それほどのコネがあったわけではない。「加入金10万円」をはらって、未知のグループに加入してくれるところは、なかなか見つからなかった。
 営業マンも5名に増えた。
 私は主任として、かれらに「負けたくない」という一心で、がむしゃらに飛びこみ営業をした。
 行く先々で栄養ドリンクを買って飲みながら、店員と会話し、薬剤師に名刺を渡しつづけたが、すげなく「間に合っています。いま忙しいから…」と断られる毎日。名刺も、ときに目の前で破られたりして、私は落ちこむことが多かった。
 政府方針の「医薬分業」が、やっと緒につきはじめたころである。
 当時の薬局は「専門薬局(調剤薬局)」に進むべきか、それとも「よろず薬局(後のドラッグストア)」に進むべきかで悩んでいた。経営情報や業界情報を欲していた薬局経営者の数は、けっして少なかったわけではない。
 ところが薬局の先生は、薬のことには詳しいが経営にはうとい方が多かった。「市場」はあるはずであった。
 ある日、私は江東区の小川薬局に飛び込んだ。
 薬剤師の小川先生は、東京薬科大学のご出身であった。先生はお忙しそうだったが、私はかまわず名刺を出して医薬分業の将来や、アメリカのドラッグストアの現状について、しゃべりまくった。
 これまで勉強してきた貴重な知識・情報である。
 やがて私の熱情に打たれたのか、話の内容がストンと〝腑に落ちた〟のか、じっと耳を傾けていた小川先生は、自分から、
「キミの会社のボランタリーチェーンに加盟してみたい」
 といってくれた。
 さらに、念を押すように「私もコンピュータを利用した新しい経営をマスターして、生き残っていきたい…」ともいってくれた。
 がむしゃらな飛びこみ営業が、花を開いた瞬間であった。即加盟していただいたことはいうまでもない。本当にうれしかった。

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2 最年少で課長に昇進

 MIC ファーマシーグループの「ボランタリーチェーン第1号店」の誕生であった。
 上司の中西事業部長をはじめ、本部社員全員で喜びを分かち合った。主任としての顔も立ち、後輩たちに営業ノウハウを身をもって示せたことも、私の大きな自信となった。
 小川先生は、東京薬科大学出身の薬局経営者を次々と紹介してくれた。
 これまで苦労していた営業が、一気に成果を上げはじめた。加盟店がどんどん増えていった。他の営業マンとの差が大きく開き、私は断トツの成績優秀者であった。
 飛び込み営業の大切さと、「努力していれば、必ず報われる」ということを、身にしみて実感したのも、私のその後に大きな意味をもった。
 加盟店は順調に伸びていき、あっというまに100店を超えた。
 私の仕事も、当然のごとく多忙をきわめ、職務は「社員の採用・教育」から「加盟店の組織化」にまで広がっていった。病弱な身体を酷使しながら、病気がいつまた再発するかと恐れながらの格闘であった。
 そのうち、埼玉県本庄市に大型配送センターを建設することになった。
 その計画の総責任者に任命され、私は関東地区一円の有名な配送センターを見学して、計画を立案した。配送センターは、どこもおなじように見えながら、隠れたところに各社の独自性がくふうされていた。
 勉強になった。
 待望の配送センターは昭和47年に完成した。このときは本当によい経験をさせてもらったと、いまも思っている。
 完成した配送センターは、都内の薬局500店舗に必要な商品を毎日、配送する大型配送センターであった。これはお客さま(薬局)のニーズに、即座に「1個単位」で応じられるシステムであり、当時としては画期的なことであった。
 まだ一般の問屋の配送は、1ケース(12個入り)単位であった時代である。
 1個単位の配送は、お店が売れた商品を必要なだけ仕入れるので、お客さま(薬局)は在庫が減り、「売れ筋」と「死に筋」がよくわかるようになる。
 いきおい資金の回転率も良くなるという、大変効率のよい経営を生み出すのである。物流から経営へ─、私の自慢していい履歴の1つだろう。
 私が後にセブン-イレブンの「成功」を一瞬にして理解するのは、こうした伏線があったからである。
ゼロからスタートしたわれわれの事業部は、私の営業力で加盟店500店舗を超える「薬局ボランタリーチェーン」となった。
 事業部年商30億円の堂々たるものである。そして昭和47年には、会社は資本金7億円、社員数は1000名以上に達し、調査・情報会社としては日本最大の大企業に発展したのである。
 私はそこの最年少課長に昇進したのであった。
 お前もいい年なのだから(このとき27歳であった)…郷里からは、お見合いの話が頻繁に来るようになっていた。

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3 彼女こそ求めていた理想の女性だ

 その年の年末年始を利用して、郷里の島根県江津市に帰省した私は、昭和45年12月29日、江の川を一望する川淵の旅館の2階で、初めてのお見合いをした。
 中学校の校長先生の娘さんだった。
 どういうわけか、見合い写真のなかには、学校の先生の娘さんが多かったが、初めての見合いもそんな1人であった。
 気持ちはあまり動かなかった。
 正月にはいってから、そのほかにも1人、2人見合いをしてみたが、「この人なら」という人がおらず、すべてお断りした。それを心配してか、島田寝具店(以前、私が履歴上の空白を埋めるために、助けてもらった親戚の店)の伯母(父の姉)が、
「いい人を紹介するから」
 といってきた。
 市内の有名な山辺神社の宮司さん立会いのもと、伯母と当人2人の4名でお見合いをした。相手の両親は来ておらず、私はその意味を後になって知るのだが、21歳の浜田順子さんは、身長160センチのすらりとした美人で、その笑顔が最高にかわいく、会った
瞬間に私は、
「この人だ! 自分が求めていた理想の女性だ」
 と心のなかで叫んでいた。
 一目惚れであった。この人を離したくない…。
 すぐ2人で近くの喫茶店にはいると、私は興奮のまま仕事や東京の生活を一方的にしゃべった。ようやく見えはじめた将来の人生設計図を脳裏に描きながら、
「必ずあなたを幸福にしますから」
 とも話した。
 彼女はうなずきながら聞いてくれていたが、私のあまりの勢いに、どう返事すべきか悩み、迷っているようであった。
 時間は、刻々と過ぎていく。
 気がつくと夕方の7時を回っていた。私はここで彼女を説得できなければ…一生後悔する…と思い詰め、彼女をタクシーで自宅まで送ることにした。
 彼女の実家は農家であった。まわりは海と山に囲まれた典型的な石見の田舎である。
 私は強引に彼女の家に上がりこみ、彼女の部屋にまで入りこむと、
「とにかく東京に来てほしい。なにを迷っているのか…」
 と口説きつづけた。
 こたつの中で、気づくといつのまにか彼女の手をにぎっていたが、その手をにぎったまま、熱っぽく迫った。
 しかし、ご両親は一度も顔を見せない(私はぜひとも、ご両親にお会いしたいと考えていたのだ)。広い家とはいえ、たしかにご両親の気配は感じていたのだが、とうとうご両親へのご挨拶はできなかった。
 さしずめご両親は、挨拶もなしに娘の部屋に上がりこみ、なにやらしきりにしゃべっている男に、いい気はしなかったのであろう。
 息をひそめて、ようすを窺っていたとも思わぬが、「このままでは一人娘を東京にさらわれる…」ぐらいの、切羽詰まった気持ちは、いだいていたのではなかろうか。
 私は一晩中、彼女の手をにぎったまま、明け方まで説得しつづけた。
 彼女はその日は仕事があり、浜田市役所に勤めていた彼女は、どうしても行かなければならない。彼女は、
「そのまま部屋で休んでいてください。今日は午前中だけですから…」
 といい残して、車で出て行った。
 私は彼女の布団にもぐって待つことにした。

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4 早く自分のものにしんさい。がんばるんよ…

  疲れから、私はそのまま爆睡した。
 また目覚めては夢うつつのなかで、初めて来たアカの他人のお宅で、こうして寝ている自分は何者なのか…と、ぼんやり考えてもいた。
 家の中は物音一つしない。おそらくご両親は、朝早くから農作業に出ているのだろう。とうとう会えずじまいだった。
 午後1時過ぎに、順子さんは帰ってきた。
 いまかいまかと、焦燥感に駆られていた私は、安堵した。その気持ちが顔に出たのだろう。彼女も安心したようにニコッとした。
 …このかわいい笑顔…まるで天使のような…。抱きしめたい衝動をぐっとこらえ、私は近寄って、自分の首に付けていたペンダントを、彼女の首に架けてあげた。
 東京に帰る時間が、刻々と近づいていた。
 彼女は車で、私を江津の駅まで送ってくれた。
 たがいに時間が足りなかった。彼女は「結婚を承諾する」とはいわなかったが、
 「私を東京までさらって行って…」
 といった。
 モナリザの微笑を口辺にたたえ、潤んだまなこで私を見つめながら、そういった。私はまた衝動がこみ上げてきた。
 その言葉が脳裏から去らない。あれは、どういう意味なのか…。私は混乱し、新幹線の車中で一人悶々としつづけた。
 新年度の会社勤務がスタートした。
 仕事は手につかない。毎日いても立ってもいられぬ気持ちでいっぱいで、あっという間に10日あまりが過ぎた。そして15日には、私はまた新幹線の車中にいた。
 そこから会社に電話し、「また2~3日休ませてほしい」と頼んだ。
 新年早々、会社は目のまわるような忙しさにあった。
 やり手の若手課長として、私はだれよりもそれを知悉していた。しかし、私は吹っ切れていた。
「郷里に帰ってきます。来週から出社します」
 中西事業部長にそう伝えながら、私は覚悟を決めていた。
 会社が自分を馘首するなら、それでもよいと思った。〝一生涯の伴侶〟たる順子さんと会社を天秤にかけたら、順子さんが重いのは自明であった。
 私の心は澄みきっていた。
(これが後に会社の社内報で取り上げられ、私は「猪突猛進の嶋崎」というキャッチフレーズで記事になってしまった)。
 江津市に帰った私は、その足で島田寝具店に行き、伯母に、
「もう一度、順子さんと会わせてほしい」
 と懇願した。
 翌日、順子さんは店に現れ、私を見るなり「お帰りなさい」と優しい言葉をかけてくれた。私はうれしかった。
 伯母は気をきかせて席をはずし、去り際に私に、
「私たちはみな出掛けるからね。そんなに好きなら、早く自分のものにしんさい。がんばるんよ…」
 と〝意味シン〟な言葉を残していなくなった。

 

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5 2人の男性を天秤にかけた、私は悪い女です

 島田寝具店の大きな家のなかは、物音ひとつしない。静かな2階に、彼女と私の2人だけだった。コタツに向かい合い、私はまた、東京の話や仕事の話を夢中で話しつづけた。
「なにを迷っているのか」とも繰りかえし話した。
 その日、逢いに来てくれたということは、私への好意の証である…と、勝手に思い込んでいた。話すうちに興奮し、出がけの伯母のささやきが脳裏によみがえった。
 男なら…早く自分のものにしんさい…私は理性を失い、その言葉に背中を押されるように、順子さんに飛びかかっていた。
 畳の上に押し倒し、彼女の唇を奪おうとしたのだ。
 しかし、順子さんは首を大きくふって、私と唇を合わそうとしない。
 しかたなく私は彼女を抱きしめたまま、それ以上の行為にはおよばなかった。ひとときの狂気と熱情に代わって、私本来の理性と節義とが息を吹きかえした。衣ごしに熱い体温の通じあうのを意識しながら、私は彼女から離れた。
 順子さんの告白はショックだった。
 彼女は私と会う数か月前にお見合いをし、たがいに合意し付き合っているというのだ。
 しかも、いまは恋愛感情もわいており、相手の男性との交際は順調だという。背も高い。イケメンだという。
 それなのに、なぜ私と見合いをしたかというと、男性の母親がとてもこわい人で、結婚にいま一歩、自信が持てないでいるからなのだという。
「東京にさらっていってもらったら、自由になれると思ったのは本当です…」
 彼女の身勝手さに、私は愕然としつつも、自分の敗北を認めざるを得なかった。
 東京と島根…の距離が、地球と月ほどもあるように感じた。
 もはや勝てぬ。私に勝ち目はない。
「2人の男性を天秤にかけた、私は悪い女です…」
 泣きながら詫びる彼女の声を、背に聞きながら、私は東京へ帰る決心をした。一路、播磨の国・上月城へ落ちる山中鹿之助の心境であった。石見ははや…私にとって安住の地ではなくなったのか…。いざ、東京へ…。
 それでも彼女は、私を江津駅まで送るといってきかなかった。
 冷たい小雨が降りつづく寒い夕方であった。
 駐車場から駅舎まで、2人は濡れながら抱きあって歩いた。たがいの瞳からあふれる熱いものが、雨の冷たさをかき消してくれた。別れたくない…なんとかならないか…と、私は心の中で繰りかえしていた。
 列車がはいってきた。
 岡山行きの特急列車「やくも号」であった。いつものように岡山から新幹線に乗るためであった。私はもはや彼女のほうを見なかったが、車中でも私の涙はとまらなかった。
 私は東京へ帰ったが、恋の病はおいそれと治らなかった。
 食事ものどを通らない。仕事も手につかない。なにもする気が起きない。自分は一生結婚なんかしない。順子さんが、彼と別れる日をいつまでも待っている…。(若いころは純情だったからだろうが)私は密かにそう決心していた。

 

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6 失恋も癒えたころ、また一つの見合い話が…

 しかし、時間というものはじつに素晴らしい。
 時がたつにつれて、私は少しずつ〝恋の病〟から回復し、仕事にもまた熱中するようになった。会社の若き幹部としてバリバリ仕事をし、順子さんとのことも心の隅に追いやって、どうにか忘れることができるようになっていった。
 そうして昭和47年の春、東京にいる親戚から、1枚のお見合い写真を見せられた。
「相手は、次男の方を探している」
 とのことであった。
 私は次男であり、実家の面倒をみる必要もない。写真の女性は小柄で、かわいらしい印象であった。ぜひお見合いしようと親戚の人に頼んだ。
 その相手こそ「横山家の美人3姉妹」の次女、横山静枝さんであった。
 現在の私の妻、その人である。
 静枝さんはその時26歳。世田谷区松原(東京屈指の高級住宅地)に住み、父上は東京都立大(現在の首都大学東京)の理学部教授をへて、当時実践女子大の教授であった。
 やはり私は学校の先生の娘さんと縁があるなと思った。
 見合い後はとんとん拍子に話が進み、私と静枝さんは結婚することになった。
 結婚式は昭和47年12月10日、四谷の東条会館で、当時の社会調査研究所社長の万里小路富英氏ご夫妻ご媒酌のもと、厳粛に、晴れやかに行われた。
 ところが、私は静枝の「家系」を聞いて、ほんとうにびっくりすることになる。

 

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7 横山家は「開運淘宮術」開祖の家柄

 横山家の長女昭子さんは、すでに川口氏(慶應大学出身で、当時日本IBM 勤務)と結婚していた。三女の和代さんは佐野紀洋氏(東工大大学院卒で、当時のセイコー勤務)と結婚していた。私の家内・静枝は次女で、明治学院大英文科を卒業し、英語関係の仕事についていた(その後、公文塾で英語教室を開く)。
 ほんとうにそうそうたる顔ぶれである。私は圧倒された。
 岳父の横山正実氏は、元首相・福田赴夫氏とも面識があった(東大同期生)。また氏は江戸時代に「開運淘宮術」を創設した横山丸三淘祖の曽ヒ孫マゴで、社団法人日本淘道会の理事長をつとめておられた。
 義母にあたる横山菊江さんは、元陸軍中将・井関隆昌氏(元陸軍第14師団長等を歴任の後、勲一等旭日大綬章。陸軍司政長官)の長女で、妻・静枝は井関中将の孫娘として大事に育てられたのであった。世が世であれば、私などは〝下足番〟にもなれなかったかもしれない。したがって、私はいまも家内には頭が上がらないのだが…。
 井関中将は陸士18期、陸大26期恩賜の典型的エリート。〝同期の桜〟にはフィリピン戦で有名な山下奉文大将や終戦時の陸相阿南惟幾がいる。東条さん(英機、元首相)は一期上、そのまた上には永田鉄山(元陸軍軍務局長)や板垣征四郎(終戦時の中国派遣
軍総司令官)らの「花の十六期」─。
 いずれも、軍人華やかなりし戦前の1コマだが、歴史マニアなら「浪速のゴー・ストップ事件」が、なじみ深いかもしれない。
 昭和8年6月17日、大阪・天六交差点で起きた、信号無視の兵士と交通巡査のいさかいが、陸軍上層部と警察(内務省)の(子どもじみた?)大喧嘩にまで発展したものだが、当時の新聞は、このとき師団長副官(大阪・第四師団、当時大佐)たる井関隆昌中将がいれば(たまたま休暇で不在だった)この事件は起きなかったろうと伝えている。
 温厚篤実の人格者として、中将の評判はそれほど高かった。
 ところで、横山家が代々受け継いでいる「淘宮」は、平成19年に出版された『成功哲学ノート』(PHP 研究所発刊、池田光著)にも取りあげられ、横山丸三は世界で30人の「成功理論家」の1人として紹介されている。
 『広辞苑』によれば─1834年(江戸時代後期)に横山丸三が創設した開運淘宮術の入門者は1000人を超え、大名も10人以上が入門していた─となっている。
 その教えの大要は、「人は、生まれつきの『癖』を洗練することにより本心が顕れ、心身、気血の運行を良くし、幸運を得る」というものだが、行きすぎた生来の『癖』を洗い流し、洗練することで、自分の天性が発揮でき、運が良くなっていくのだという。
 運をさまたげていたのは、行きすぎた『癖』だったのだ。
「心配しすぎ」や「ひとこと多い」などの、さまざまの『癖』が開運をさまたげている。
 それを修養・修行でなくし、人は運を開いていく…ことができるのである。
 私は当時はこの教えを知らなかったが、後に知ることになり、平成20年2月「淘宮」に入門することになる。結婚してから幸運に恵まれた人生を歩みつづけておられるのも、このおかげかもしれない。

 

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8 「コンビニの時代」が来ると直感

 昭和49年6月、結婚して3年目にやっと長男の英彦をさずかった。
 横山家はもちろん、嶋崎家も大変な喜びようであった。そして私は会社(社会調査研究所)の幹部(最年少課長)としてばりばり働いていた。
 そのころ東京都知事は革新系の美濃部さんになっていた。
 そのせいもあってか労働運動が活発で、当時、従業員数が1400人以上にもなっていた当社にも労働組合が結成された。弱冠23歳の田下(たおり)憲雄(現在の(株)インテージ会長)君が委員長となり、副委員長には田中氏がなった。
 万里小路社長は激怒し、会社をあげて組合つぶしにかかった。第1組合に対抗して第2組合が結成された。
 第2組合はもちろん会社を守るための組織である。
 中西本部長や私が中心となり、第2組合を動かした。第1組合は会社の内外で〝ワッショイ、ワッショイ〟とデモをし、会社を封鎖しようとする。第2組合もデモ隊を組織し、これを排除しようとする。2つのデモ隊は激突し、けが人が続出した。救急車が何台も出動し、新聞(読売が一番大きく載せた)がこれを書き立てる事態に発展した。
 いま思えば、あれもこれも第1組合の策謀(深謀遠慮)であった。
 当時の社会風潮からして、労働争議の「全責任」は会社にあるのである。だから争議は荒れるほどよい。中小企業の多い出版・マスコミ・業界紙などでは、オーナー家や創業者を追放する「労働組合による乗っ取り」事件がいくつも発生していた。
「労働運動」とはいいながら、そのじつは、組合幹部による(私怨・私欲の)会社乗っ取り運動であった。
 第1組合は本社ビルを占拠し、とうとう会社を完全に乗っ取ってしまった。
 日本で1、2台しかない大型コンピュータの部屋も、組合が占拠したため、会社は完全にマヒしてしまい、われわれは会社にはいれなくなった。完敗である。
 大株主の毎日新聞や日本火災、埼玉銀行などから「早く解決しろ!」と責めたてられ、仕方なく第1組合との協議に応じた会社は、創業者の万里小路富英社長と第2組合に属した役員の退任を認め、私も責任を感じて退職を考えはじめた。
 そんな矢先の昭和49年(1974)5月25日、セブンイレブンの第1号店「豊洲店」がオープンした。
 それを伝える日経新聞の記事を追いながら、私は日本にも「コンビニの時代」が来るのだと直感した。アメリカのドラッグストアを研究していた私は、コンビニのことも一緒に研究していたのであった。

 

美人三姉妹
横山正実
美人三姉妹、左より三女和代、長女昭子、次 女静枝(妻)、 書斎の横山正実氏(岳父)
井関隆昌中将
義母菊江さん
妻・静枝の外祖父・井関隆昌中将は 温厚篤実の人柄で知られた
にこやかな義母菊江さん (井関中将長女)