天運 第3章 第2の奇跡

天運 道は開ける                           嶋崎 八洲男


第3章  第2の奇跡

    〝穴がふさがっている!〟
           医師も驚いた肋膜炎の突然快癒

 

1   明治大学政経学部経済学科
2   雑学と乱読の日々
3   明大雄弁部を通して「橋龍」を知る
4  「ゼミ長」として初めての表舞台に立つ
5   肋膜炎を発病
6   推薦なしで、クラリオン(帝国電波)に一発内定
7   穴がふさがっている。これは奇跡だ!
8   一計を案じ(株)社会調査研究所に入社を果たす


 

壇上の私。「橋龍」とも付き合い、演説会の常連だった


 ─私の〔疾風怒濤〕時代 その(2)
 明大生活の1年目は、遊びに飲み会に合コンにバイト…で終わり成績はさっぱり。しかし雄弁部のシゴキが私の性格を徐々に変えていく。授業料闘争に参加し、あこがれのゼミにもはいって貴重な体験を積むが、またしても病魔が私をおそった…。



1 明治大学政経学部経済学科

 昭和39年、夢にまで見たあこがれの東京6大学の1つ「明治大学政経学部経済学科」についに入学した。これは私にとって「1つ目の奇跡」が起こったことになる。
 さっそく明治大学の制服の襟に「明治のバッジ」をつけ、帽子を買った。
 4月下旬には九段の武道館で、明大マンモス入学式が盛大に行われた。
 世界3大校歌の1つといわれる「作詩・児玉花外/作曲・山田耕筰」の〝白雲なびく駿河台云々…〟という明大校歌を聴き、歌い、感動で涙が流れた。その後、この大好きな明大校歌は6大学野球やラグビー戦などで、どれだけ歌ったかわからない。
 困難にぶつかるほど力を発揮する─不撓不屈─の精神も、また自分にぴったりの校訓であった。私が無意識に求めていた精神こそ、伝統的に受け継がれたこの明治大学の校訓であったのだった。私は自分と「明治」との見えぬえにしを強く感じた。
 入学式の翌日から、京王線の明大前駅にある和泉校舎に通いはじめた。
 校門から校舎までは、クラブ活動の勧誘で引っ張りだこである。私も多くのクラブから入会しないかと声をかけられた。
 そこへ、「~わが明大雄弁部からは、大野伴睦(元自民党幹事長)、三木武夫(元総理大臣)、荒船清十郎(元運輸大臣)、山口敏夫(元労働大臣)などの大物政治家を輩出した伝統ある雄弁部である。是非、政治に関心のある学生は、この明大雄弁部にはいって活躍してほしい~」という声が、耳に飛びこんできた。
 私は心が動いた。
 理由はまったく〝私的〟なもので、たしかに政治家になってみたい気持ちも多少はあったが、私は小さいころからの「あがり症」を、なんとか治したいと思ったのである。
 私は小中学校時、人前でしゃべるのが、ものすごく苦手な引っこみ思案の性格だった。(いまでも多少あるが)。だから「人前で、ふつうにしゃべれる人間になりたい」という思いには、非常に大きなものがあった。
 私は思い切って、雄弁部の門をたたいた。
 授業が終わると、雄弁部の新人10人は和泉校舎の屋上に上がり、大きな声で発声練習をするのが日課であった。すぐにのどが枯れて声が出なくなったが、その厳しい練習は「明大応援団」とあまり変わらなかった。
 ただそのかいもあってか、その後、6大学弁論大会、自民党本部弁論大会などに出場するようになり、あがり症はだんだんと矯正されていった。同時に、私は少しずつ政治の道に近づいていくことになる。後に橋本龍太郎(元総理大臣)と交流することになるのも、そんな経緯からであった。
 東京6大学野球があると、われわれは神宮の常連でもあった。練習代わりに大声を出して、大好きな校歌〝白雲なびく駿河台云々…〟を歌うのである。野球のスコアとはべつに「校歌合戦・応援合戦」があった。プロにはない良さであろう。
 それにしても、明大OB の有名人が意外と多いのにはびっくりした。私が知っているだけでも、いやじつに〝キラ星〟のごとし…である。
☆総理大臣経験者→三木武夫・村山富市
☆プロ野球関係→星野仙一・高田繁・川上憲伸
☆俳優タレント→高倉健・西田敏行・田中裕子・ビートたけし・三宅裕司・柴田理恵
☆作詞作曲→古賀政男・阿木燿子・阿久悠
☆歌手→山下達郎・宇崎竜童
☆冒険家→植村直己
☆スポーツ関係→松尾雄治・大仁田厚
☆作家→猪瀬直樹(前東京都知事・信州大・明大院卒)
☆映画監督→岡本喜八
☆歌舞伎役者→(十代)岩井半四郎
☆キャスター→福留功男
☆アナウンサー→宮田輝・玉置宏 等々…

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2 雑学と乱読の日々

 明大の学生として、東京6大学野球やラグビー戦の応援に、そしてクラス仲間との飲み会や、近くの女子大「共立」との合コンに…見るもの聞くもの興味津々で、初年度の学生生活は大忙しであった。
 特に新宿の文化女子大との合同ハイキングは、クラス1の色男、赤塚哲夫君が取り仕切り、いつも何組かのカップルが生まれていた。しかし、私はつねに隅のほうにいる目立たぬ存在で、いきおい女の子にはモテなかった。
 当時あこがれていた下宿屋「高木アパート」の晴子ちゃんも、成城大学が忙しいのか、ほとんど顔を合わせる機会もなくなっていた。こちらは大学1年のほやほやなのに、晴子ちゃんはもう3年生である。そろそろ卒論課題にも頭を悩ます学年であった。
 ならば学問への関心のあり方も、私とは違ってきていて当然だったろう。そのうち私は〝浪人専門の下宿屋〟高木アパートを出る決心をした。
 新しい下宿先は、西武新宿線の花小金井駅から徒歩10分のところにある「山本アパート」の2階であった。3畳1間の狭い部屋である。おまけに私は蔵書も多かったので、寝るところにも苦労するほどであった。よく床が抜けなかったと思う。
 勉強嫌いの不良少年、自ら選んだ〝下から3番〟がいうも語弊があるが、私は小学校時代からの「本の虫」で、時間を見てはよく本を読んだ。特に「カバヤのキャラメル」に付いてくる点数を集めては、本をもらうのが楽しみであった。
 ジャンルは問わない。『竹取物語』『一寸法師』から『アラビアン・ナイト』まで洋の東西、まったくの乱読であった。
 私が鉄棒から落ちて「頭が良くなった話」は前に書いたが、おそらくあの出来事は、こうした私の知的好奇心の刺激に、大いに役立っていたに相違ない。これは、いまも確信をもっていえる。(ただし、鉄棒から落ちないにこしたことはないが)。
 だから、明大にはいってからも本は読んだ。
 実家からの仕送りが来たとき、バイト料がはいったとき、私はまっさきに本屋に飛びこんで、関心のあるものを手当たりしだいに買った。明大和泉校舎生協書籍部の、最も良きお得意さんの1人でもあった。
 当然、食費にまわすお金は極度に限られ、私はガリガリにやせこけていた。
 なんでも知りたい典型的な雑学であった。
 共産党に興味がわけば、その関連の本を買いあさり、宗教に関心が出れば、またその方面の書籍を買いあつめた。当時全盛の「イデオロギー論争」などとは関係なかった。特定の宗派や党派への興味や関心はなく、あくまで純粋な好奇心であり、〝知的面白がり屋〟とでもいったらよいだろうか。
 興味と関心のはばが、じつに週刊誌的なのである。なんでもあり、なのである。
 だからマルクスの『資本論』も『共産党宣言』も、毛沢東の『実戦論・矛盾論』もヒルティの『眠られぬ夜のために』も『聖書』もまた、私の本棚には雑多に並んでいた。前章に書いた「…あこがれの晴子ちゃんに『毛沢東語録』を貸した」てんまつにも、かくなる
事情が絡んでいたといえるだろう。
 アルバイトもよくやった。
 日経新聞社発行の『日本紳士録』の得意先各社への配達やビアガーデンのボーイなど、こちらもなんでもありであった。デパートの中元・歳暮の梱包や配達は、バイト料が特に魅力的であった。
 余談だが、いま私は多業種にわたる(一見、相互に関連のなさそうな)企業を経営しているが、ときに密かにニヤリとすることがある。ただしここからが本番だが、その貫く経営思想は一貫しており微動だにしたことはない。
 雑学が自分のなかで矛盾しなかったように、経営もまた「たった1つの経営思想」で統一されているのである。
 ともあれ、こんな生活をしていれば当然、勉強時間は限られてくる。
 成績は推して知るべしで、特に語学(英語と第2外国語のドイツ語)は最悪であった。
 追試を受けて辛うじて単位を取り、それで進級できたのがほんとうのところである。
 それでも私の遊び心はやまず、私はダンスパーティにも参加した。しかしまったく踊れず、会場の壁にすがり付く、まさに「壁のシミ」状態であった。
 仲間から叱咤激励され(半ばバカにされ)、クソっとばかりに新宿歌舞伎町のダンスホールに通いはじめたが、上達はしなかった。思うに私のシャイな部分が、ダンスには向いていなかったのだろう。
 バイト料が出れば、1人旅にも出た。ユースホステルを利用して北海道1周旅行をしたのも、そのころである。ユースの夜は学生中心のキャンプファイヤー、見知らぬ同士が1つ輪になって踊り歌う姿は、いまも目に焼きついている。

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3 明大雄弁部を通して「橋龍」を知る

 シャイで、人前でしゃべるのが苦手だった私も、明大雄弁部でみっちりしごかれた。
 私は授業の始まる15分くらい前に、学生が席について教師を待っている教室へ飛びこんでは、勝手に壇上に上がり、

「~~私は雄弁部の嶋崎です。いまの日本は危機的状況であり、われわれ学生は立ち上がらなければなりません云々~~」
 と、一方的にしゃべるような訓練をしていた。その間、およそ5分くらいであったろうか。しかし、5分間しゃべりつづけるのは、そうたやすいことではない。
 私は、これをほぼ毎日繰りかえした。
 夕方には校舎の屋上に上り、声が出なくなるまで蛮声を張り上げる練習である。幸いこれらが実り、しゃべることにも億劫しなくなった。人前に出るのが楽しみにもなった。人間、変われば変わるものである。
 そして2回生の秋、1つの大きな転機がやってきた。
 その年の「第7回学長杯争奪全日本大学部門別雄弁大会」が、わが明大で開催されることになり、部長命令で私も出ることになったのである。「嶋崎、お前も出ろ」その一方的な指名に、はじめ私はいやいやだったのだが、ふと子どものころの「番長」「不良少年」の自分を思い出し、「非行少年と今後の課題」というテーマで40分ほどしゃべった。
 かぶいて(傾いて)いた本人がしゃべるのである。
 そんないいことはない。その心理分析や行動把握には「当事者しかわからぬ」迫真性がある。〝いい子〟はぜったいに「かぶく心」はわからない。
 審査員の方々は、うなずきながらメモを取り、ときに苦笑しながら私の主張を聞いてくれた。残念ながら入賞はできなかったが、私には充足感があった。弁論の喜びが少しわかったような気がした。
 その後、開催された自由民主党学生部主催の「第1回部長杯争奪演説大会」にも出場した。当時は、アメリカの原子力潜水艦の日本への寄港問題が、大きな社会問題になっていたので、感化された私も、
「米国原子力潜水艦の日本寄港に反対する」
 というテーマで、大演説をぶった。
 その他の出場者は全員、自民党が喜ぶような演説であったが、私だけが敢然と違う演説をしたのであった。
 これが「橋龍」との縁をつないだ。
 そのときの自民党の学生部長が、弱冠25歳で代議士になった橋本龍太郎(当時27歳)だったのである。後年内閣総理大臣になり、政策通と知られた青年政治家は、このころからポマードで髪形をキッチリ決めた、たしかにハンサムな「龍サマ」であった。
 つき合ってみると「橋サマ」は意外の反骨である。
 その気質が、おそらく私に相通じるものがあったのだろう。「類は友を呼ぶ」というような表層ではなく、人間の信頼関係が成り立つ「深層における共通性」である。
 後日、明大に「自由主義研究会」が創設され、私がその初代委員長になって、自由主義発展のために、いっしょに行動していくことになるのも、橋龍と私の「気質」が合っていたからだと思う。
 しかし、昭和42年1月29日(私が3回生)に大変な事件が起こる。
 有名な「明大紛争」である。発端は「学費紛争」であったが、この日、予定されていた「最後の団交」が、学生スト派と反スト派の対立でこじれ、当時の武田総長と小出学長が監禁され、ついに機動隊が学内にはいったのであった。
 団交は流れ、スト派は排除され…私も「学費値上げ反対」の立場でそこにいた。後日、赤軍派で有名になる重信房子女史などもいっしょだった。
 当時の世相は騒然としており、昭和41年1月の早稲田、慶應に始まる大学紛争は明治、日大、東大とつづくのだが、概して私学は授業料(または不正経理)紛争に端を発したものが多かった。
 その分、イデオロギーや党派を超えていたと思う。
 当時の私をささえていたのは、明大ラグビー部の名物監督・北島先生の「前へ、前へ」の精神ではなかったかと思う。その「明大魂」が深く心にしみ込み、私は前進しようとしていたのだ。
 私も「1歩前に」出て、自ら行動するようになっていた。

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4 「ゼミ長」として初めての表舞台に立つ

 大学3回生になると、学生はどこかのゼミに所属することになる。
 私も思案していた。そんなとき、たまたま下宿先の山本アパートの先輩・伊東秀男さんが「中野渡先生の経営心理学ゼミナールにはいらないか」と誘ってくれた。
 私もそのテーマには関心があり、蔵書にも心理学関係・経営労働関係のものは何冊かあった。
 聞けば「中野渡ゼミ」は、学内でも評判のゼミの1つだという。当然、競争は激しいのだが、私は喜んで申しこむことにした。筆記試験があったが、さいわいにも私は合格者25名の中にはいっていた。このなかには卒業時に学部総代(最も成績の良い者がなる)の栄誉に輝いた川名一男君もいた。
 そして私が表舞台に出る機会は、絶好のタイミングでやって来た。
 伝統の中野渡ゼミでは「ゼミ長」を選挙で選ぶ慣例になっていたが、私は勇躍立候補して当選したのである。〝引っ込み思案で恥ずかしがり屋〟の私が「ゼミ長」になった。
 元「番長」・親泣かせの元「下から3番目」の不良が、由緒ある学問の府・明治大学の「ゼミ長」である。
 私はゼミ生25名のまとめ役として、おそらくこのとき「世に出た」(もちろんこの先もまだまだ苦難は待ち受けていたのだが)といっていいのだと思う。
 中野渡ゼミの課題は「働く人の心理と生産性について」の相関を、科学的に証明しようとするものであり、事前の基礎的な勉強のあと、中野渡先生が顧問をされていた愛知県刈谷市の家具メーカー「カリモク家具」(当時日本家具の生産で業界第2位)で、ゼミ生全員が泊まりこみで研究を行ったりした。
 私たちは社員・従業員の方々との対話・面接を中心に、その意識(心理)を探り、その生産性への影響について調査した。
 はじめて知る会社組織や意思決定の仕組みなど、どれも興味あることばかりであった。
 反省もあったが、まずは満足のいく調査ができたのではと、みなで総括した。
 ただし、現実は机上で考えていたのとは大違いであった。
 人間のこと(仕事をふくむ)に観念論は通じないと、私は緒戦にして実践の大事さを学んだ気がした。その思いは、いまも貫いている。面はゆいことだが、その限りにおいて、私は学生時代のゼミの教えを「生きた学問」として最も生かし、かつ活用した学生の1人であると自認している。
 ゼミの基本テキスト『産業社会における人間行動』(B5判/405頁の大冊)は、私の(大学卒論でつくった)一番大事な蔵書である。
 その調査結果をまとめ、カリモク家具の加藤社長や役員の方々に発表するのは、ゼミ長たる私の役目であった。緊張しながらも、私は仲間たちの調査データに裏打ちされた結論と所論を展開し、多くの賛同・納得を得た。
 その経験は、私に大きな自信と影響をもたらしてくれた。
 私の生活は、以前にも増していそがしくなった。その多忙さのゆえに、私は(私を変えてくれた)明大雄弁部を退部することになった。
 しかし、私の履歴をおぼえておられたのか、ある日、中野渡先生から、

「ゼミの本郷先輩が、社会党(現社民党)から神戸市会議員に立候補するから、行って応援してくるように」
 との、命令とも依頼ともつかぬ指示を受けた。
 私はさっそく神戸に飛び、明大の学生服姿で毎日宣伝カーに乗り、

「~~本郷のぼる! 本郷のぼる! 若い本郷のぼるを、ぜひ市議会に送ってください。東京からこうして明治大学の後輩も応援に駆けつけています云々~~」
 と連呼してまわった。
 その間およそ1か月、泊まりこみで選挙を手伝ったのは、このときが初めてだったが、私の心のなかに「政治で日本を動かしてみたい」という気持ちが湧いてきたのは確かであった。結果は落選であったが─。
 中野渡ゼミは先輩後輩のつながりも強く、京都旅行や合宿などで親睦を深めているが、
ゼミ同期の会も長くつづいており、私たちは卒業してからも2年ごとに全国から集まり、懇親を深めている。
 特に川目三郎、北島清成、楢館一貫、森山豊三君たちとは、いつも飲み、かつ遊ぶグループとして、いまも長いお付き合いをさせていただいている。たがいの顔を見ただけで、私たちは一瞬にして懐かしい「あの時代」にもどる。げに友情ほど尊いものはなく、各位には感謝してもきりがない。

 

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5 肋膜炎を発病

 私が食事をおろそかにして、ガリガリにやせこけた学生だったことは、すでに書いた。
 しかし、私はそんなことは少しも気にせず、相変わらず読書や遊びやゼミ長や…と、充実した生活を送っていた(…はずだった)。
 しかし〝心身のアンバランス〟は、深いところで密かに進行していたのだろう。
 昭和42年の12月、暮れを郷里で過ごそうと島根県江津市に帰った私は、空手の練習をしていた。立ち木に布を巻いて、これを拳でなぐり、打つのである。
 …と、カゼでもひいたのか、私は突然、せき込み、翌日からしきりに痰も出始めた。咳はとまらない。しかも痰は、血のにじんだ血痰であった。のどでも悪いのかな…はじめ私は、そう考えた。
 それでも、翌年の正月は郷里でそのまま過ごし、私は2月、新幹線で上京した。
 しかし、その車中でなにかおかしい。一時小康状態だった咳と痰が、また頻発するのである。私は東京に着くなり、その足で明大指定の新宿・東京医科大学病院に行った。
 その場で、胸の筋肉や肋骨の痛みを訴えたが、空手をやって…咳が出て…という話を誤解したのか、担当の医師は、
「筋肉の使いすぎでしょう」
 と、トンデモナイ見立てをし、湿布薬をくれただけだった。納得できなかったが、とりあえずは湿布薬を貼ってもらい、私は下宿先の山本アパートに急いだ。
 駅からのバスのなかで、汗が止めどなく流れ、下着まで濡らすほどであった。気分は朦朧となり、すわっているのがやっと…どうやって帰り着いたのかも、覚えていない。ともあれ気づいたとき、私は下宿3畳間の自室にうつ伏せになって、うなっていた。
 魔の2日間─。
 私はほとんど動けなくなり、トイレにも、はっていくのがやっとであった。下着も大汗でびっしょり、それがまた氷のような冷たさになって…と、もしあのとき、下宿のお婆ちゃんが気づいてくれなければ、私の身の上に取り返しのつかぬことが起きていたことは確かだろう。
 急報に近所の町医者が飛んできてくれたが、診察の結果は、
「左の肺がまったく機能していない」
 という冷厳なものであった。左の肺には水が溜まり、私は肋膜炎にかかっていた。
 翌日、兄といっしょにタクシーで新宿の東京医科大学病院に行き、精密検査を受けたが結果は「即入院」であった。当時の東京医大病院は古い崩れそうな建物であり、私が入院した内科病棟は、特に幽霊でも出そうな、うす暗くきたない建物であった。
 唯一の救いは、美男子の兄が東京にいてくれたことであり、私は、またこの兄に迷惑をかけることになるのである。兄はそのころ山陽パルプの江津の工場から、東京の本社勤務(丸の内)に代わっていたのであった。
 入院はしたが、咳が続き、血痰がでる状況がつづいた。担当医はインターン上がりの若い医師で、毎日「ストレプトマイシン」の注射を打ちつづけた。

 

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6 推薦なしで、クラリオン(帝国電波)に1発内定

 話はさかのぼるが、4回生の春(昭和42年)ともなると、学生はみな就職活動に目の色を変える。
 私も当然、活動を始めていたが、ゼミの中野渡先生からは「ゼミ長である嶋崎君はカリモク家具に話がつけてあるから」といわれていた。
 早々の内定であるが、私は音響関係の会社に興味があった。先生には悪かったが、カリモク家具への興味は、あくまでゼミの調査研究の対象としての興味だけであった。
 当時、音響関係で有名だったのはパイオニア、トリオ、サンスイなどであったが、私の目を引いたのは帝国電波であった。その後「クラリオン」と名前を変え、「クラリオン・ガール」で世の脚光を浴びる会社である。
 商品はカーステレオが有名で、週刊誌や新聞で大きくもてはやされていた。業界一の利益も出し、日本一のボーナスも支給していた。その超注目株が帝国電波(クラリオン)であった。
 私はここだと思い、大学の就職課に申し込んだ。
 成績が悪かったためか、学校推薦は受けられないという。私は引き下がらなかった。それならと、文京区白山の帝国電波本社に単身乗り込み、交渉のすえに、ようやく出てきてくれた人事課長を前に、思いのたけをぶつけた。
 その情熱が伝わったのか、人事課長は、
「君のようなバイタリティ溢れる人材を求めていたのだ。学校推薦なしでいいから入社試験を受けなさい」
 といってくれた。採用担当者のお墨付きをいただいたのである。
 私は、多くの有名大学の成績優秀者たちに混じって試験を受けた。結果は見事に合格、帝国電波の採用通知が届いた。…そのルンルン気分の年末、先にも書いたように私は郷里に帰ったのであった。

 

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7 穴がふさがっている。これは奇跡だ!

 発病から入院…私は間近に迫った卒業と就職のことを考えていた。
 このままつづけば、せっかく決まった帝国電波への就職もダメになるのではないか。不安はつのった。やがて帝国電波からは、
「病気の貴殿を採用することはできない。十分療養して再起を期してもらいたい」
 との主旨の手紙が来た。
 不安は現実のものとなり、私は悔しくて涙を流した。
 私の容体は、肋膜炎から「膿胸」という難しい病気(肺に溜まった水がドロドロのウミになっていた)に変わっていた。
 大学病院では珍しい病気ということで、医学生のモルモット扱いであった。胸の膿は注射器では抜き取れず、背中に1センチの穴を開け、穴から1メートルの管をつけて吸い出していくのである。
 いつも管が延びていた。背中の穴から毎日500㏄の消毒薬を入れられるたびに、それを口から吐き出す苦しい闘病生活であった。
 しかも、次にはその穴をふさぐために「肋骨を6本も切り、足の肉を取って肋骨の穴をふさぐ」大手術をするというのであった。
 内科療法ではむりで、私は外科に移された。手術に必要な血液は、5000㏄以上にものぼり、兄や会社の同僚は仕事を休んで、私と同じ大量のA 型血液の準備に奔走してくれた。
 ところが、その大手術をじっと待っていたある日(気分は極めて良かった)、診察にはいって来た担当医が、突然、
「穴がふさがっている。これは奇跡だ!」
 というのである。
 一瞬なんのことか分からず、私はポカンっとしたが、担当医はつづけて「手術する必要はない。このまま治る」と私に告げたのであった。
 昭和43年5月、3か月におよぶ療養から私は退院した。
 当然、明大の卒業式にも出られず、あの大好きな校歌斉唱を歌うことも、聞くこともなく、ゼミ仲間の晴れ姿を目にすることもかなわず…私は1人、時期遅れの卒業生として、過酷な現実と直面することになったのであった。
 しかし、「第2の奇跡」は起きた。
 結核菌は消え、私は結核病棟での長期療養を強いられることもなく、こうしてまたもどって来れたのである。自分はほんとうに運がいい。早く新しい就職先を探して、ほんとうの社会復帰を果たしたいと願った。

 

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8 一計を案じ(株)社会調査研究所に入社を果たす

 私は体調を整え、考えを整理するために、またまた郷里・江津にもどったが、一時はストレプトマイシンの大量投与の副作用が出て、耳鳴りがひどく、就職活動どころではなかった。東京の友人に頼んで東京版の新聞を送ってもらい、求人欄を見ては片端から応募してみたが案の定、病気のためことごとく断られた。
 なにも、ソニーや松下電器(現パナソニック)を望んだわけではない。それなのに…お先は真っ暗であった。
 そこで一計を案じ、郷里江津市の親戚が経営し、当時、島根県の優良企業にもなっていた「有限会社島田寝具店」に就職させてもらったことにした。履歴書には卒業後すぐに就職したことにして、履歴上の空白を埋めたのである。苦肉の策であった。
 そこへ、かつて私が学生時代、男性化粧品の調査アルバイトをしたことのある「株式会社社会調査研究所」の求人募集が飛びこんできた。
 それは、通常の新聞広告枠からはみ出るほどに大きく、私の目に強く焼きついた。
 即座に私は「これだ」と決めた。早速の応募に会社からは「面接に来るように」との連絡がはいった。胸を高鳴らせながら、私は急ぎ東京にもどった。
 当日、新調した紺の背広を着て、私は文京区本郷3丁目の(株)社会調査研究所本社ビルに向かった。(当時すでに資本金1億円で、日本一の情報データバンクだった。現在は社名が(株)インテージとなり、東証一部上場会社となっている)。
 面接とはいえ、1次に軽い筆記試験があった。応募多数ゆえの〝足切り〟なのだろう。
 2次の面接は難しかったが、無事合格することができた。
 こうして昭和43年の秋、私は晴れて社会人となったのである。