天運 第2章  最初の奇跡

天運 道は開ける                           嶋崎 八洲男


第2章  最初の奇跡

    〝やればできる、必ずできる〟という信念から東京6大学の明大へ

 

1   ベニスブランド(株)秀吉に入社
2   就職3か月で退社
3   浪人生活の始まり
4   初めてのラブレター
5   合格ラインまであと一歩
6   東洋大学法学部に合格
7   盲腸で入学手続きを断念
8   腸閉塞にかかる
9   東京オリンピック始まる
10 奇跡が起きた! 本当に合格したのだ

 

 

  受験写真の私


 ─私の〔疾風怒濤〕時代 その(1)
 集団就職列車で東京へ。就職先ではデッチ奉公。厳しい先輩にしごかれ、それでもがんばるが、「赤緑色盲」が発覚して3か月で退職。大学に行くしかないと予備校通いを始めるのだが、無残にも…。しかし、ついに憧れの明治大学へ合格した!



1 ベニスブランド(株)秀吉に入社

 昭和37年3月16日、東京での生活がスタートした。
 東京は、江津高校の修学旅行で来たとき以来の2度目である。東京駅の混雑にはびっくりしたが、親類の田中幹啓、田中英明、塩谷さなえ、小林浩司さんたちが迎えにきてくれていた。
 その人たちにともなわれ、朝9時に日本橋馬喰町の「文具卸ベニスブランド(株)秀吉」を訪ねて入社した。会社は4階建ての自社ビルであった。
 会社の寮は本社の4階大広間で、10人の先輩たちと、そこで雑魚寝をするのである。1人部屋はなかった。
 近くに銭湯があり、先輩たちが連れていってくれた。
 私はかわいがってもらおうと、先輩たちの背中を一生懸命洗ってあげた。日本橋のど真ん中、周りはビルの谷間であった。
 朝6時に起き、まず清掃、7時から3階の食堂で朝食だが、先輩たちが先で、私は1番あと、料理はほとんど残っていなかった。まるで〝相撲部屋〟のようであった。
 私は、みそ汁とおしんこだけのおかずで、ご飯を胃の中に流しこむことも多かった。
 小さな会社で、デッチ奉公のように雑用までなんでもやらされた。
 最初の仕事は、文具を全国の文房具店に送るための梱包が主だったが、欧米など海外に送るものもあった。背広組の大卒ふたりが担当していた。
 私の仕事がおそいので、かれらは、
「もっと早く処理しろ、おそい、配送に間に合わせろ、もたもたするな…」
 と、やたらどなり散らし、私には、かれらがすごく偉そうに見えた。
 私は作業着を着て、来る日も来る日も梱包の仕事をしながら、大卒の背広組と自分の落差の大きさを、ひしひしと感じた。
 東京という大都会で「生きる」「仕事をする」「金をかせぐ」ということに押しつぶされそうな毎日だった。
 だから、休日になるとホッとした。
 休みには馬喰町から都電で銀座に行き、〝銀ブラ〟を楽しみながら大都会・東京をあじわった。都電のなかで女子高生がはなす会話が、とても愛らしく聞こえた。
 田舎者から見た東京の人は、着るものも、ことばも会話のテンポも、みなめずらしく驚きだった。たまのその感動が、毎日の仕事のつらさを忘れさせてくれた。
 入社2か月が過ぎるころになると、仕事は梱包から文具の選別と価格などのラベル貼りに移った。山積みされた文房具(シャープペンシル・ボールペン等)をまず色別に分け、値段付けする作業である。社員数人でやっていた。
 ある日、先輩から、
「だれだ、色分けしろといったのに、違う色が混じっているぞ」
 と、どなられた。そのときはまだ、自分がやったとは思っていなかった。何日も同じミスがつづき、自分は「赤緑の色盲」だったということを思い出した。
 不安になった。自信がなくなってきた。どうしよう…。

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2 就職3か月で退社

 最初の給料は1万3000円くらいだったと思う。うれしかった。
 すぐに田舎の両親に手紙を書き、給料のなかから3000円を同封して送った。そのとき、
「これからも、この会社でがんばります。安心してください」
 と書いたばかりであった。しかし、ほんとうは仕事に自信をなくしかけていた。色盲では、この会社では生きていけない。
 かといって、大都会・東京で生きていくすべもわからず、転職するやり方もわからなかった。そのときふと思ったのは、偉そうに見えた背広組の「大学卒」の先輩たちのことであった。
 あの自信に満ちた態度は、自分とは違いすぎた。自分も大学を出なければ…人生は変わらない、との思いが強くなるばかりであった。
 大学に行くしかない、私はそう決心した。
 決心すれば、行動ははやい。私はすぐに両親に手紙を書いた。
「このままでは仕事ができない。大学に行かせてほしい、学費を出してほしい、なんとか支援してほしい…」
 毎日書いて、そうお願いした。
 そのころ、田舎の実家は家を新築したばかりで、おカネも大変な時期であった。ましてや就職組で勉強していなかった私が、ほんとうに大学へ行けるかどうかも心配され、はじめ両親は大反対であった。しかし兄が、
「八洲男が東京で困っている。自分も金銭面で応援するから、助けてやってほしい」
 と懇願してくれ、最後は両親も納得してくれたのであった。
 成績も良かった兄は、自分では大学にも行かずに郷里の一流企業、父のいた山陽パルプ(株)(現日本製紙)に入社していた。
 みんなの恩顧に報いねば…私は早速、休日を利用して勉強の準備にとりかかった。
 ところが─、である。
 情けないことに、英語のABC…が最後まで書けない。
 大学入試は英語が必須である。高校時代、就職組にいて、50人中の下から3番目、美人の山田さんがビリで、その次が〝ウドの大木〟の伊東くん(私の用心棒をしてくれていた)だったが(ま、そんなことはどうでもいい)、勉強してこなかったことが、ほんとうに悔やまれた(悔やんでも遅いのだが)。
 やっとのことで、両親からの了解を得たというのに、このザマは…。
 昭和37年6月10日、会社を退職した。わずか3か月の期間だった。
 それからアパート探し、親戚の田中英明さん(当時、法政大学の夜間部)とアパートを探した。そして小田急線の喜多見駅から徒歩8分くらいのところにある「高木アパート」の1室を借りることにした。
 このアパートは、大学受験に失敗した浪人たち30人ばかりが居住する、安い、馬小屋風の「浪人専門」のアパートだった。
 とりあえず予備校にはいることにし、代々木駅近くの代々木学院(小田急線では参宮橋が近い)に入学した。大学めざしての生活がここから始まり、高木アパートの持ち主の母親と娘(成城大学1年生)のマドンナ晴子ちゃんのいるアパート暮らしが始まった。
 昭和37年6月下旬のことであった。

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3 浪人生活の始まり

 いよいよ浪人生活が始まった。
 社会人でもない、学生でもない不安定な身分である。小田急線の喜多見駅から電車に乗り、参宮橋駅で下りて、代々木学院に通うだけのわびしい日々であった。私学受験の必須科目である英語、国語、社会のいわゆる「英国社3科目」の勉強が始まった。
 しかし、予備校生のほとんどが、高校時代に大学受験で猛勉強した人たちばかり。そのなかにはいって講義を受けたが、きびしかった。
 なにぶん高校時代、からっきし勉強などしたことのない私だから、講義にまったくついて行けず、悩みは深まるばかりであった。
 入学1か月目に、早くも実力テストが実施された。
 案の定、結果は散々で、英語5点、国語15点、社会25点であった。
 当然、100点満点での結果である。いくら高校時代の成績が悪かったとはいえ、こんな点数は取ったことがない。ただア然…とするばかり。
 その後の講義にも、まったくついて行けず、自分にとっては、講義は時間の無駄であった。しかも、その時間はどんどん過ぎていく。気持ちはあせるばかりであった。
 考えたあげく、自分は一人で勉強しようと思いついた。
 予備校の地下にある「自習室の利用」を思いついたのである。せっかく入学したのだから、授業料や時間をむだにはしたくなかった。
(この決断は正解であった。社会に出てからも、私は─窮すれば通ずる─運の強さを、なんども経験することになる)
 各大学の過去の試験問題集(以下「過去問」という)を買いこみ、それを1問ずつ解いていくのである。もちろん多くは解けない。文字通りの格闘であった。
 朝9時から夜10時まで、ときには食事も取らずに私は地下の自習室に籠もりつづけた。
 そして時折、予備校の屋上に出ては、眼下に広がる代々木の街をながめ、
「自分は、なにをしているのだろう。これからどうなるのだろう…」
 と自問していた。
 しかし、答えるものとて、ない。カラスが鳴きながら飛んでいた。
「アホー」「アホー」と聞こえた。
 社会からの疎外感で、みじめであった。
 ガラス戸に映る自分の姿は、着たきりすずめ、靴もすり切れた一足だけで、ただ目だけがギラギラと、見るからに〝素浪人〟であった。
 やがて、自分の実力をためすため、(予備校の試験は受けず)私は無謀にも旺文社主催の全国模擬テストを受けてみたが、結果は火を見るより明らかで、
「このままでは、どこの大学も受かる見込みなし」
 との、きびしい評価であった。
 しかし、ここであきらめるわけにはいかない。
 その後も、毎日毎日、地下の自習室で「過去問」に取りくみ、反復して問題解答に取りくんだ。できない問題はノートに書き写し、往復の電車のなかでも勉強した。ときには下宿のマドンナ晴子ちゃんの顔を思い浮かべながら、必死でがんばった。
 そのかいもあってか、自分でも徐々に学力がついていくのが分かった。
 自画自賛ではないが「過去問」との格闘にも、確かな手応えを感じはじめたのである。
 自信がついてくると心の余裕も湧いてくるのだろう。下宿でも30人ばかりの浪人生のなかに、しぜんと気の合う仲間もできていき、下宿生活もしだいに楽しくなっていった。
 下宿先の高木アパートは、朝夕2食付きだった。
 食事ができると、マドンナの晴子ちゃんが、鶯のようなかわいい声で、
「ご飯ができましたよー」
 と、声をかけてくれるのである。
 晴子ちゃんは成城大学の1年生であった。浪人生たちは、食事よりも早く晴子ちゃんに会いたい一心で、そわそわし、やがて、いっせいに食堂めがけて駆けだしていくのであった。
 当然、私もそのなかにはいっていた。私の青春は春本番が始まろうとしていた。

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4 初めてのラブレター

 下宿生活はしだいに楽しくなった。
 私の疎外感も薄れていった。毎日猛勉強もしたが、早朝6時からと毎日曜日には、体力づくりをかねて、草野球の練習にも熱中した。徐々に本格的になり、ユニフォームも作って「ハリケーン」というチーム名もつけた。
 社会人チームとも交流試合を行うようになった。メンバー10人の浪人生たちとは、特に気が合った。
 マドンナ晴子ちゃんが通っていた「狛江キリスト教会」にも、野球の合間を見つけては駆けつけた。日曜日ごとの〝追っかけ〟である。かわいい女の子たちがいっぱいで楽しかった。このとき初めてキリスト教を知ることになった。
 近くには早朝から太鼓が鳴り、踊っているところもあった。新興宗教とは分かったが、おもしろそうなので、その輪のなかにはいって踊ってみた。天理教であった。
 宗教に関心が強くなった友人の一人が、創価学会にはいっていた。
 私は、彼から創価学会発行の『大百蓮華』『人間革命』等々の教典を読まされた。私の両親は「生長の家」の江津市部会長であった。私は入信していなかったが、両親からよく話は聞かされていた。関連本もたくさん読んだ。
 『生命の実相』や『真理について』─。教祖・谷口雅春氏の本は、いまでも共感できるところが多い。
 立正佼成会の本も読んだ。さまざまな宗教への興味と関心が強くなっていった。
 仲間6人で丹沢にも行った。山頂の山小屋で一泊し、ご来光をおがんだ。心身が洗われる思いの、忘れられぬ美しさであった。
 そんなある日、突然晴子ちゃんが、
「嶋ちゃん、本を貸してください。なんでもよいです。読みたいから」
 と、声を掛けてくれた。
「えっ」と思いながらも、うれしかった。急に晴子ちゃんと心が通じたような気がした。
 手元にあった『毛沢東語録』のなかにはさんで、
「晴子ちゃんの、朝の〝ご飯ができましたようー〟という声が好きです。毎日元気が出ます。勉強に力がはいります…」
 と、書いて渡した。私の初めてのラブレターであった。
 その翌日から、晴子ちゃんの「ご飯ができましたよー」の声が、さらに高くかわいく変わったような気がした。
 晴子ちゃんは、私に、
「お代わりどうぞ、ご飯、おみそ汁…」
 と、声をかけてくれることが多くなった。
 7月の夏休みが近づいてきた。晴子ちゃんは、
「嶋ちゃんの田舎(島根県江津市)に行ってみたい。きれいな日本海や、嶋ちゃんの生まれ育った町や、家が見てみたい」
 といい出し、「8月10日ごろに行ってもいいか」と、驚くようなことをいいだした。しかも、母親もいっしょに行くという。私は、晴子ちゃんと日本海で泳ぐ自分を想像して、うれしくて飛びあがりそうになった。
 すぐ実家に手紙を書き、私は一足先に帰省することになった。実家では晴子ちゃん母子をむかえるのに興奮していた。

 

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5 合格ラインまであと一歩

 私は実家で8月10日を待った。母たちも落ちつかぬようであった。
 ところが─、である。東京の晴子ちゃんから、
「親戚で不幸があり、そちらに行けなくなりました」
 という葉書が届いた。一瞬にして「日本海で晴子ちゃんと海水浴を楽しむ夢」は、はかなく消えてしまった。まことカゲロウのごとく…。
 しかし、落ちこんでなどはいられない。
 私は後先のない浪人生であった。これからは本気で勉強しなくてはと思いなおし、すぐに上京した。数日後はお盆であった。すると、
「晴子とふたりで、盆おどりにでも行って来たら…」
 と母親がいった。
 そのすすめのまま、ふたりで出かけることにした。朝顔をあしらった花柄の真っ白いゆかたを着た晴子ちゃんは、とてもかわいかった。ふたりで盆おどりを見たり、夜店でかき氷を食べたり…、その思い出は、いま追憶しても楽しい。(ただ晴子ちゃんの気持ちは分からずじまいだったが…)
 秋にはいり、毎日朝4時起きで猛勉強に励んだ。
 世間は喧しく、社会状況は内外とも騒然としていた。いくら集中しようとしても、そうしたニュースは否応なく私の耳にも入ってくる。何か得体の知れぬパワーによって、世界も日本も動かされているような錯覚に陥ることさえあった。
 これから世の中はどうなるのだろう。また、日本は・・・と、ときに青年らしい不安にさいなまれつつ、それを振り切るように机に向かったのを覚えている。
 ともあれ、私は代々木学院の地下室で、ひとり相変わらず黙々と「過去問」と戦っていた。もっとも弱かった英語だけは、中学生レベルの問題集を買ってきて初歩から勉強し直した。
 その秋の旺文社の全国模擬試験は、英語55点、社会78点、国語70点という成績で、まずまず私の努力にこたえてくれた。飛躍的に伸びたのであった。
 旺文社からは明大の政経学部、中央大の経済学部、法政大の経済学部などの─合格ラインまであと一歩─という成績表が届いた。
 やっと自信がついてきた。
 早いもので、集団就職で上京してから最初の大晦日が近づいた。下宿の30人の浪人生はそれぞれ故郷に帰省していった。残ったのは数人であった。大晦日の日がやってきた。
 NHKの紅白歌合戦が始まり、下宿に残った数人で食事をしながらテレビを見ていた。
 すると母親が、
「晴子と初詣に行って来たら…」
 といってくれた。その声にうながされて、ふたりで初詣に出かけた。帰省しないでよかった。ラッキー! と喜んだ。かわいい晴子ちゃんは和服だった。
 首に巻いた狐の襟巻きが、とてもよく似合っていた。
 ふたりは小田急狛江駅から乗車し、南新宿で下車して明治神宮に初詣に行った。
 東京で初めての明治神宮への初詣であったが、大変な混雑ぶりで、後ろの人に押されっぱなし。晴子ちゃんとはぐれないように、ふたりで寄り添って賽銭箱の前まで進み、100円玉を投げ入れた。
 私は「6大学に合格しますように」との願いを込めて祈った。晴子ちゃんはなにを願ったのか、聞く勇気はそのときの私にはなかった。
 晴子ちゃんとふたりで御神籤を引いた。
 晴子ちゃんの引いたくじは、白いふつうのくじで〝凶〟だった。私が引いた御神籤は黄金色のくじで〝大吉〟だった。
 光輝いて見えた。今後の私の人生を物語るかのようであった。

 

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6 東洋大学法学部に合格

 晴子ちゃんと初めて、明治神宮に初詣に出かけた嬉しさ。そして、引いた御神籤は黄金色の色紙で「大吉」、なんという幸運だろう。
 ~~朝ごとにむかう鏡の曇りなくあらまほしきは心なりけり(昭憲皇太后御歌)~~
 毎朝、私たちが向かう鏡がきれいであると、まことに気持ちがよいように、人の心もいろいろのものを映す鏡でありますから、常に清く澄み、明らめておきたいものです、と書かれていた。
 このときから─心に眼を向けた生き方をしよう─と強く決心した。
 晴子ちゃんと、手もにぎることのできない純情少年であったのは、いま思うと、ほんとうに残念だったが、昭和38年の正月もあっという間に過ぎ、大学受験は目の前に迫ってきた。受験票を受け取るため、各大学を見てまわった。
 東京6大学を中心に、青山学院、中央大学…。そして最終受験校を明治、法政、立教、青学、中央の各法学部に決め、申し込んだ。
 2月、ついに受験が始まった。
 いままでの1年間の猛勉強をためす時だと、胸がわくわくした。心臓はどきどき音を打った。全国から集まった受験生のなかに、集団就職で上京した自分がいると思うだけで、力がはいったし、また大変うれしかった。
 そして、合格発表も始まった。
 大学構内に貼りだされた合格通知掲示板に、自分の受験番号はないかと眼をこらして探し歩いた。結果は、1次志望校はすべて不合格であった。
 あきらめきれない私は、まだ受験できる大学はないかと探し、なんとか東洋大学法学部を見つけて受験した。数日後、合格発表を見に行くと、なんと合格であった。
 よかった…。これで、両親や友人たちに顔が立つと、ほんとうに安堵した。いまでも忘れられない。
 合格の報告を両親や親戚、田舎の友人たちにするため、私は郷里の島根県の江津市に帰省した。自宅には、親戚縁者の方々が20人くらい集まっていた。
 さっそく「合格祝いの宴」を開いてもらった。
 島根新聞の「大学別合格者一覧」にも、「東洋大学法学部合格/嶋崎八洲男」と載っていた。中学生のときの〝トビ少年〟以来、2度目の新聞掲載であった。
 島根県内の同じ東洋大学合格者から、「いっしょに入学式に上京しよう」という電話が数本はいってきた。両親は嶋崎家から大学生が誕生したと、ほんとうに喜んでくれた。
 ところが、入学のための上京が近づいたころ、からだに異変が起きた。
 盲腸が再発したのである。強烈な痛みだった。
 半年くらい前から勉強中に盲腸がときどき痛んで、薬でそれを押さえていたのであったが、なんでいまこんなときに…と悔いた。しかし、このときまだ自分が大病を患う人生とは気づかなかった。御神籤の「大吉」とはなんなのか。

 

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7 盲腸で入学手続きを断念

 痛みは高熱になり、嘔吐が私の全身をおそった。
 父が勤めていた山陽パルプ江津工場内の「山パル病院」で診察を受けた。結果は「盲腸炎」と診断され、その場ですぐに手術となった。たかが盲腸の手術であるのに、4時間もかかってしまった。
 院長みずから「オペ」をしてくださった。入院期間は2週間にもなった。盲腸が化膿して、腸まで広がっており、そのため手術は「腹から腸を全部取り出し、洗浄して再度腹の中に戻す」という大変な大手術だったようである。
 江の川の河口に広がった山パル病院は、松林に囲まれた静かな場所にあった。
 母や友人たちが見舞いに来てくれた。父は勤務が終わった5時半ごろに毎日、見舞いに来てくれた。いままで親に反抗してきた自分が申しわけなく、このとき、両親の愛情を強く感じた。遠くから父の足音が聞こえただけでうれしく、私の胸は踊った。
 入院中に「東洋大学の入学手続きの期日」が近づいてきた。
 父母は大変心配してくれ、入学金をどうするか(当時、東京の親戚にたのんで入学金を納める手筈になっていた)と、しきりに私に聞いてきた。ベッドのなかで私の脳裏は目まぐるしく動いていた。そのうち、
「来年もう一度、志望の東京6大学を受験してみたい」
 という思いが日増しに強くなった。
 当時、島根の田舎ではNHK ラジオから、東京6大学の野球中継がよく流れており、ある面、大学は東京6大学しか知らないような状況であった。そこに自分も入学してみたいという思いが、ますます強くなっていった。
 東洋大学合格は、もちろん名誉なことであり、親戚や友人たちは心から私を祝福してくれたのだが、田舎であればこそ、東京とはまた違う事情もあったということである。
 私は思いきって両親に、
「もう1年、浪人させてほしい。東京6大学を受験させてほしい」
 と懇願した。両親は困惑し、答えを躊躇した。
 高校時代の友人たちは、私が就職組で、あまり勉強をしていなかったと(…だから、基礎学力はともかく、勉強しつづける根気があるのかと、そんなことまで口にして)反対し、親戚もやはり猛反対であった。みんながみな、
「来年受験して、希望の大学にはいれなかったらどうするのか」
 というのであった。私は返す言葉がなかった。
 しかし、またもや美男子の兄が、
「本人がそこまでいうなら、やってみろ。俺は応援するから」
 といってくれた。
 最初のときと同じように、2度までも私は、兄の応援の言葉に救われたのであった。兄には心から感謝している。いまでも頭が上がらない。両親もやっと了解してくれた。(もっとも兄への〝迷惑〟は、これからもまだつづくのだが…)
 その翌日に、東洋大学の「入学手続き期間」は終了し、私は入学金を納めずに再び〝素浪人〟となった。
 いま思い返せば、無謀な決意であったのではと冷や汗を禁じえないが、近くの山や日本海の海岸を散歩し、十分に休養した5月上旬、私は上京し、ふたたび下宿「高木アパート」にもどった。晴子ちゃんも下宿の友人たちも、びっくりしていた。
 こうして、また1年間の浪人生活が始まることになった。
 代々木学院の地下室での「東京6大学の過去問」との戦いが始まったわけだが、この後間もなく、とんでもない病魔が私の身を襲おうとは、さすがに想像できなかった。

 

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8 腸閉塞にかかる

 昭和38年6月下旬の日曜日、暖かい最高の天気で、私は仲間の浪人生6人と近くの多摩川に遊びに行った。
 ボートに乗って遊んでいたが、その後あまりに暑くなってきたので服を脱ぎ、パンツ一丁で川にはいって泳いだ。(第1章に書いたように、私は水泳が得意であった)。遊びから帰り、下宿の夕飯を取った後、以前、盲腸の手術をしたところが、突然、強烈に痛みだした。
 そのうち嘔吐が始まり、止まらなくなった。
 嘔吐は翌朝6時ころまでひっきりなしに続き、ついには吐くものもなく、ただ激痛にのたうち回った。下宿近くに住んでいた晴子ちゃんの姉が、私を車で病院に連れて行ってくれた。
 世田谷の国立大蔵病院で診察を受けたところ、「腸閉塞」と診断された。命に関わるほどの状況であった。すぐに入院手術となり、手術は4時間以上もかかった。手術の内容は
「腸閉塞の部分の腸を切り取り、腸と腸をつなぐ」というものであった。12針も縫う大手術であった。
 東京の親戚、田中家の人たちが病院に駆けつけてくれた。
 塩谷さなえさん(旧姓田中)は、毎日看病に来てくれた。両親も数日にして上京してきた。郷里の江津から、夜行寝台列車(いづも号)で上京するので、ほんとうに疲れたと思う。ましてや、大手術を受けた息子の病院に急ぐ車中での思いは、いかばかりであったろうか。そう思うと涙が流れた。
 このときほど、両親の愛情を感じたときはなかった。不良で勉強もせず、両親を何度も困らせていた自分が、ほんとうに恥ずかしかった。母も塩谷家(小田急線梅が丘駅)に泊まり込んで毎日、病院に通いつめてくれた。
 晴子ちゃんは成城大学の2回生になっており、テニス部に所属し、忙しく大学生活を謳歌していた。だから食事の手伝いも少なくなり、代わりに晴子ちゃんの姉が、毎日手伝うようになっていたのだが、その晴子ちゃんも、母親といっしょに2回も見舞いに来てくれた。
 見舞いのときには、いつも文明堂のカステラを持ってきてくれた。とてもおいしく、私の大好物になった。(いまでも文明堂のカステラを食べると当時を思い出す)。
 東京6大学の受験をめざして、5月中旬に再度上京したばかりなのに、1か月ちょっとの6月20日から腸閉塞になって入院。病院のベッドの上で悶々とし、「過去問」と戦いながら、強い不安で頭の中はいっぱいであった。
 はや3か月が過ぎようとしていた。
 田舎の親戚や友人に、東洋大学入学を取りやめ、東京6大学の有名校に入学するんだと意気込んでいた自分の、このザマはなんだ…。私はなんと不運な人間なのだと思い、悔しくて、悔しくて眠れぬ日々がつづいた。

 

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9 東京オリンピック始まる

 入院生活も3か月が過ぎたころ、待ちに待った退院の日がやってきた。
 9月中旬、親戚・塩谷家に泊まっていた母が退院の手続きをしてくれ、自分の荷物を持ってくれた。3か月ぶりに「娑婆」に出た。そして、あわただしくその翌日には、東京駅発の夜行寝台列車「いづも号」で郷里の江津市に向かった。
 近所の人や親戚、友人たちもまたビックリしていた。
 実家のまわりの散歩、近くの山や海岸べりの散歩も、その年の春に「静養」でやったばかり。出会う人々の視線も、
「嶋崎家の息子は、ひ弱で、また東京から帰って、ぶらぶらしている…」
 といっているように思えて、恥ずかしく、隠れるようにして散歩をつづけていた。それにもまして、私には受験勉強があった。「早く上京して勉強しなくては…」と、気持ちはあせるばかりであった。
 2週間ぐらい静養し、ふたたび上京した。10月2日であった。
 ときはアジア初の「東京オリンピック」の開催に向け、日本中がわき返っていた。その開催日の10月10日(現在の体育の日)は、すぐそこに迫り、東京は最高に盛り上がっていた。予備校の近くの代々木公園内には「オリンピック村」が完成して、内外のアスリートたちであふれていた。オリンピック開催のその日、青空には飛行機雲の五輪マークが大きく浮かび上がった。
 世界の祭典オリンピックが始まった。
 大松監督ひきいる「東洋の魔女」が、女子バレーボールでソ連(現在のロシア)を破り金メダルを獲った。ほかにも、この大会から採用された柔道や、当時日本のお家芸であった男子体操も大活躍をしていた。
 マラソンでは、エチオピアのアベベ選手が裸足で走り、金メダルを獲った。円谷幸吉が競技場内で、イギリスのヒートリーに抜かれはしたが、銅メダルに輝いたのも印象に残っている。
 世の中は東京オリンピック一色であるのに、浪人中の私は予備校の地下にもぐり、病気療養中のおくれをカバーするために、朝から晩まで受験勉強に明け暮れていた。
 冷酷にも受験日は、すぐそこに迫りつつあった。
 晴子ちゃんは食事の手伝いに全然出て来なくなった。5歳の子ども連れのお姉さんが、ご飯やみそ汁をそそいでくれていた。素浪人たちは話題もなく、静かに素早く食事をとると、われ先に狭い自室に飛び帰った。
 ほんとうに寂しく暗い人生だと思った。
 入院・手術・退院の繰り返しの年で、勉強をする時間はまったくなかった。不安な昭和38年も暮れ、昭和39年の正月を迎えようとしていた。ことしも下宿の浪人生のほとんどが帰省し、残った者は2~3人であった。
 試験日はもうそこまで来ている。はたして2度目の受験はどうなるのか…。

 

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10 奇跡が起きた! 本当に合格したのだ

 昭和39年2月、再度の大学受験シーズンがやってきた。
 昨年は腸閉塞の大病をわずらい、2度の大手術のため、病気療養生活が長くつづき、他の受験生のように長時間の受験勉強ができなかった。
 それに加え、自分の勉強方法が、はたしてどこまで通用するのか。講義や授業ではなく「過去問」中心の〝独学〟が、どれほどの血肉となっていたのか。すべては間もなく断が下されることになるのであった。
 めざすは東京6大学への合格なのである。もちろん、いくら入学を希望しても、難しいことは自分でも分かっていた。
 大病もした。勉強時間も少なかった。あれも、これも…どれもみな…と。しかし、それらは所詮、言い訳なのである。それもわかっていた。
 そんな不安のなかで明治、法政、立教、そして中央、青山学院の五大学を受験した(さすがに東大・早慶はあきらめた)。
 昨年は将来、弁護士になろうかという淡い夢をいだいて、法学部に挑戦した。ことしは卒業したらまずサラリーマンになり、将来はいずれ社長になりたいという決意のもとに、行くところは経済学部と決めて受験した。
 そして試験が終わり、各大学の合格発表掲示板を、すがる思いで見にいった。法政、中央、立教、青学と次々と不合格になっていた。やはり、ダメだったか…。
 最後は京王線の明大前、明治大学和泉校舎である。
 私は駅を降り立つと、多くの受験生がいっぱいで混乱していた「合格掲示板」の前に、祈るような気持ちで向かった。
 受験番号「1615」が、そこにあった! 
 まさかと思い、なんども確認した。夢ではなかった。ほんとうに合格したのだ!
 そのとき、顔の筋肉が勝手に動きだして、引きつるのがわかった。
 私は笑おうとしたのか、泣こうとしたのか。もどそうとしても、もどらない。やがて…形容しがたい歓喜の自覚が、体内をつらぬき、顔面の硬直を、やわらかくほぐしていってくれた。
 喜びが顔いっぱいに広がった。
 夢ではない、ほんとうに夢ではないのだ。これは奇跡だ!
 私はその場で叫んでいた。(「奇跡」を辞書で引いてみると、世にも不思議な出来事・起こりえないことが起こることとある)。
 一昨年の春、郷里の島根県江津市から集団就職で上京した自分が、東京6大学の一角である「明治大学政経学部経済学科」に合格したのだ。
 私の人生は、このときから大きく変わっていくことになる。
 この後「5つの奇跡」が次々と起こり、あり得ない、起こりえないような出来事が現れてきて、心豊かなドラマのような人生が始まってゆくのである。
 私自身も想像できなかった明治大学政経学部経済学科への合格。私はすぐに田舎の両親に、誇らしげに電報を打ち、その足で帰省した。
 当時、田舎では、東京6大学の明治大学に合格するのは非常に難しいことだと考えられていた。昨年、東洋大学法学部に合格したときも、盛大な祝賀の宴会を、親族をはじめ知人が開催してくれたが、今回はそれ以上の盛り上がりとなり、実家には親族多数と知人が集まり、大宴会を開いてくれた。
 やればできる、必ずできる─という強い信念が、自信とともに自分の心のなかに強く湧いて、その後の人生の、心の支えになっていることはいうまでもない。
 5つの奇跡の人生…が始まったのである。