天運 第1章  思い出の日々

天運 道は開ける                           嶋崎 八洲男


第1章  思い出の日々 

         故郷・江津での少年時代

 

1   私の生い立ち
2   遊ぶ場所は江の川…しっかり小遣い稼ぎも
3   南北朝時代からの交通の要衝
4   蛇の青大将と愛犬ラック
5   ケガの功名?・・・で頭が良くなった
6 〝トビ少年〟として新聞に載る
7   県立江津高校の第2期生
8   出世頭は警視庁本部長
9   八洲男には手がつけられない…と
10 突然の初恋、その名はフジワラ・ジュンコ
11 お前は東京へ出ろ、東京でがんばれ

 

 

  上に立つ得意げな私、下左が美男子の兄
懐かしい父と母 少年時代を共に過ごした愛犬ラック


 小学校時代は「番長」、中学校時代は「トビ少年」、伝馬船ももっていた江津高校時代は、夜通し海べで不良仲間と酒をのみ、勉強もせずに、これでもかこれでもかと親を困らせ、「八洲男には手がつけられない」と。就職先もなく、ブラジル移民の夢もやぶれ、突然の初恋も、またはかなく終わり…。

※トビとはトンビのこと、鳶。鷲・鷹と同じ肉食の猛禽類。


1 私の生い立ち

 私は昭和18年6月15日、1女3男の次男として、郷里の島根県江津市に生まれた。
 父は当時の大企業・山陽パルプ株式会社(現日本製紙)のエリートサラリーマンであり、母はひかえめな、しかし芯の強いしっかりした女性であった。
 私の、いまに至る並大抵のことではくじけぬ反骨精神は、おそらくこの母の名残りだと思う。
 長姉、長兄は地元でも評判の美男美女で、姉は長じて「ミス江津」になり、兄は幼少時から賢くモテモテのイケメン少年であった。そして、弟はすなおで、いつもニコニコと、周囲のみんなからかわいがられ、愛され…ひとり私だけが、からだはちっちゃく、やんちゃで、ときに手のつけられぬ暴れん坊であった。
 昭和25年4月、私は近くの郷田小学校に入学した。
 全校生徒、数100人の、当時としては小ぶりの学校であったが、神話の国・山陰の学舎にふさわしい古びた歴史ある校舎であり、その土手に咲く古桜の美しさは、目を閉じればいまだ眼前に彷彿とするのを禁じえない。学校はいまもその地にあるが、すっかり真新しくなり、往時のおもかげさえない。当時は明治初年代の学制頒布間もない校舎の一部が、そのまま残っていたのである。
 小柄の私の背丈は学年で前から2番目、朝礼では1番前であった。朝礼の1番前…目と鼻の先に朝礼台があり、教師がおり、その〝定席〟で毎朝、判で押したような校長や教師の訓示を聞くのである。
 身じろぎもせずに…耳になど入ろうはずがない。その緊張感とばからしさに、私がすぐに飽きてきたのはいうまでもない。
 考えるより先に、からだが動くのが私の特質である。
 動けば摩擦が生じる。友達にちょっかいを出す。友達もやり返す。作用と反作用が起こる。私の周囲はすぐにざわつき始める。教師があわてて飛んできて、ゴツンとやる。その繰り返しである。私が問題児と目されるのに、さほどの時間はかからなかった。
 負けん気が強く、いつもけんかばかりしていた。
 ある時など、けんかで窓ガラスに頭をぶっつけ、ガラス片が頭に刺さったまま、血が流れ、顔じゅう真っ赤になり、教室中が大騒ぎになったこともある。それでも私の「荒ぶる心」は、やむことがなかった。
 いつしか「番長」として一目置かれ、朝礼でも1番後ろでふんぞり返るようになったのだが、教師はときおりようすを見にくるだけで、私と目が合っても、素知らぬふりで通りすぎるのが常であった。教師との仲は、当然いいものではなかった。
 しかし小学5年生のとき、転勤で来られた寺田先生が私をかわいがってくれ、『小学校新聞』の部長に任命してくれた。
 先生がなぜそうしてくれたのかは、わからない。私が心を入れかえたわけではない。まじめに勉強を始めたわけでもない。特別自分から先生になついた記憶もない。
 それなのに、寺田先生は私に目をかけてくれたのである。
 先生は私のなかの「寂しさ」や「愛情不足」を見抜いたのかもしれない。または子どもの「荒ぶる心」にひそむ創造のエネルギーを惜しみ、もったいないと思われたのか。
 奮起した私は、夢中で新聞制作に取りくみ、その発行に全力を投入した。
 話題には事欠かない。なにせ「番長」なのである。情報はおのずと集まってくる。
 新聞は概して仲間や他の教師にも好評であった。
 毎号、廊下や学校の掲示板にもはりだされ、それをまた寺田先生にほめられ、ますますがんばった思い出もある。
 学校からなんども表彰された。学校の生徒が読みたくなるようにくふうし〝クイズ〟も入れた。また、景品を出すことでも評判になっていった。私が胸を張って職員室に出入りしたのは、後にも先にも、このときだけであろう。しかしながら、成績は相変わらず「中の下位」であった。

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2 遊ぶ場所は江の川…しっかり小遣い稼ぎも

 小学校時代は、遊ぶ場所には事欠かなかった。
 近くに江の川、家の裏には山、そして日本海…。しかし、だてに遊んでばかりではなく小遣い稼ぎも。そして小金を貯めて…。
〝中国太郎〟の江の川はすぐ近くにあった。家の裏手は山であり、歩いて10分ばかりのところには荒海・日本海。遊ぶには事欠かなかった。
 夏が近づくと、おとなと一緒に日本海にはいり、300メートル沖まで出て2~3メートルもぐり、ハマグリを獲って浜までもどる。小さなからだに巻いたタオルが、30個ものハマグリで重くなり、息をすうために海面に顔をだすのが大変であった。
 台風が来たときは海が荒れ、ハマグリが砂から飛び出ていた。それを拾いに海に出た。
 荒れ狂う海から岸にもどるのが大変。海の底を20メートルもぐっては浮上し、息をついではまたもぐるというやり方でハマグリを獲り、それを社宅で売って歩いた。安い新鮮なハマグリは、奥さん方の評判であった。
 山に行けば、ホオジロ、メジロ、ウグイスなどの山鳥がたくさんいた。これを「かすみ網」で仕掛け、毎日獲っては鳥屋さんにもって行って売るのである。これも、よい小遣い稼ぎになった。
 目に見えぬほど細い糸で編むかすみ網の仕掛けは、現在は禁止されているから、まちがっても真似しないように願いたいが、当時は全国的に使われていた仕掛けであった。
 また江の川では、秋になると川ガニが何万匹と日本海に向かって現れる。その光景は何度みても壮観の一語に尽き、新聞などでも紹介されたことがあるが、それをもぐっては素手で獲るのである。それも売って小遣い銭にした。
 川ガニ(沢ガニ)は、全国どこにでもいたから、食生活の不足しがちな状況下での貴重なたんぱく源でもあった。獲ったばかりの沢ガニをゆでて、親父たちが酒を呑んでいたなどの懐古談をする同年配の男は多い。
 前にも書いたように、私の父は当時日本で2番目に大きいパルプ会社・山陽パルプ㈱のエリートサラリーマンだったから、私たち一家もその社宅に住んでいたが、父との思い出はあまりない。
 ただ母は給料日近くになると、やはり家計のやりくりが大変なのか、私が貯めた小金を目当てに、よく借りにきた。私は利息をつけて母に貸し、父の給料日にはきっちり利息を付けて返してもらっていた。いまでも鮮明に浮かぶ思い出だ。
 考えてみれば、社宅の奥さん方といい、母といい、私にとってはまことに割のいい〝顧客〟だったわけである。私は「市場」(マーケット)のど真ん中に身を置いて、元手いらずの商売で小金を稼いでは、それを回して利を上げていたことになる。私のビジネス事始め(または修業時代)といっていいだろう。

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3 南北朝時代からの交通の要衝

 ここで江津市について一言しておきたい。
 江津は島根県のやや西寄りにある、現在の人口30000人ほどの市で、その昔は石見の国の一部であった。市の中央部を〝中国太郎〟の威名のある江の川が、南北に悠々と流れており、河口を中心に海に向かって大きく開けた市街地は、往時のままだ。
 遠く南北朝時代から、瀬戸内地方と日本海をむすぶ江の川の船運の要衝として栄え、元禄期から文化文政期(江戸時代中後期)にかけては全盛を誇っていた。
 当時は日本一の商都・大坂(阪)と新潟、北陸をむすぶ北前船貿易が盛んだったから、江津もその大きな恩恵を受けたのである。
 万葉の歌人として有名な、柿本人麻呂ゆかりの地としても知られ、多くの歌や伝説が伝わっている。また、江津市和木町にある小川家雪舟庭園は特に有名で、島根県の指定文化財にも認定されている。
 古代の「出雲神話」や『出雲風土記』の重要性はいうまでもない。これらすべてが、この地方の豊かさと先進性をあらわしているのではないか。
 いままた全国的に出雲大社が、注目をあびているが、出雲・石見(人と文化)のDNAのなかには「日本原種」ともいいうる形質が、連綿と受け継がれているような気がする。須佐之男(すさのお)の悲劇も大国主(おおくにぬし)の国譲りドラマも、いかにも山陰に似つかわしい神話に思えるのである。
 しかし、これらは後年の私の思いいれである。
 小学校時代の私は「荒ぶる心」を持てあましつつも、「商売の心」も忘れることなく、だれに遠慮するでもなく、思うがままに生きていた。
 昭和30年代は川あり海あり山ありの、子どもの遊び場も無限にあった。江の川は、河口幅が500メートル以上もある大河で、小学校時代は、そこを泳いで渡りきる者が一人前の男子と見られていた。もちろん、私はその1人であった。

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4 蛇の青大将と愛犬ラック

 次男坊の私は、小学校時代、両親から愛されたという記憶があまりない。
 前にも書いたが、美男子の兄は(長男のゆえもあり)大事にされ、かわいい末っ子の弟は当然みなにかわいがられ…と、私は日々寂しい思いをつのらせていた。
 どこの親も、子どもはみな等しくかわいく、分けへだてなどするはずがないのだが、当の次男・次女は気づかない。ましてや育ち盛りの子どもを何人も育てることが、どんなに大変なことか、そんなことを子ども本人が理解できるはずがない。
 時は終戦から10年もたたぬ混乱期である。わが家はまだ恵まれていたほうなのだが、それでも両親の、特に家計をあずかる母の気苦労は、想像にあまりある。
 ただ、そんなことは私にはわからない。
 だからいろいろ母の気を引こうとするのだが、結果は逆になることが多く、かえって私の孤独感と焦燥を深めるばかりであった。
 実際、ある時など海岸で見つけた生きた〝蛇の青大将〟を首に巻きつけて家に帰り、大目玉をくらうなど、母を困らせることのほうが多かった。
 そんなとき、私のかたわらにはいつも愛犬のラックがいた。
 ラックはシェパードの雑種の大型犬で、近所に生まれた4匹の中の1匹をもらい受けたものだが、母に叱られるたびに、私は愛犬ラックと、日本海の砂浜に置き去りにされたボロ船のかたわらで過ごした。
 自分の孤独と廃船の取り合わせが、忘れられ、打ち捨てられた孤独者の、悲しい前途の暗示でもあるかのようだったからである。
 ・・・イカ釣り船のかがり火が、真っ暗な夜の海面に点在している。
 波間に揺れては消え、あるいは出会い、あるいは離れ、その幽界の灯火のごとき透明な美しさに見とれながら、涙を流す日々もあった。
 焚き火をしながら、朝まで過ごすこともあった。
 そこでは、冷えきったからだに寄り添う、愛犬ラックの温もりだけが、生きてあることの証拠であった。ラックの温もりが、私に生のあたたかさを教えてくれた。
 私には、ときにいまでも人恋しさにむせぶ癖がある。
 また私は、自分の底抜けの陽気のかげに深い孤独の宿るのを知っているが、あるいはこのころの名残りかもしれぬ。
 いまにして愛犬ラックとの出会いも、それもまた、私がその後に体験する多くの運命的な出会いのひとつだったのだと、しみじみと思う。
 生きているものは、みなあたたかく、尊い。

 

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5 ケガの功名?・・・で頭が良くなった

 昭和31年に、私は市立江津中学校に入学した。
 学校は自宅(社宅)から徒歩で20分の距離にあった。私は相変わらず身体が小さかったが、生来ともいうべき敏捷性と平衡感覚を備えていたので、それを生かそうと体操部に入部して、猛練習をした。
 その成果は、やがて県大会にまで出場できるようになって、報われることになった。
 特に私は鉄棒の大車輪が得意であり、自慢だった。
 大車輪は鉄棒の華である。鞍馬や吊り輪や平行棒など、鉄棒種目には多々あれど、大車輪ほど人の耳目をそばだてるものはない。
 子どものころは特にそうである。
 ところが、ある日の練習中に鉄棒から手がはずれ、私は2~3メートルも宙に飛ばされた。そのときはマットも敷いておらず、私は頭を強く打ってしまった。さいわい事なきを得たが、まこと好事魔多しというべきであろう。
 ただ、じつはそのときから自分では頭が良くなったような気がしている。バカになるならまだしも、そんなことが実際にあるのかどうか、もちろん判然としないが、これはほんとうの話である。
 私は水泳も得意であった。
 江の川の河口500メートルを泳ぎきり、日本海の荒波で鍛えた小学校時代の話は前に書いたが、体操部に属しながら水泳大会にも出場し、自由型では当時の県記録も出して優勝した経験をもっている。現在でも私は50メートルを40秒台のタイムで泳いでいるが、年齢を考えれば、これは自慢していいだろう。

 

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6 〝トビ少年〟として新聞に載る

 私は、いつも愛犬ラックといっしょであった。だからラックとはいろいろな体験をともにしているが、ある日、山奥に遊びに行き、大木の枝にトンビの巣を見つけた。登ってみると、その中に真っ白い毛の生えた数羽の雛鳥がいた。
 親鳥もいた。雛鳥に手を伸ばすと必死に攻撃してきたが、私はかまわずその中の1羽を捕らえ、家に持ちかえった。
 私はその雛トンビを飼いはじめた。
 名前も〝太郎〟と名付け、毎日毎夕、餌を与えるたびに「太郎、太郎」と呼んだ。餌は近所の魚屋からもらってきた魚のハラワタである。それをやりながら「早く丈夫で大きくなれ」と祈りつつ、そう呼んだ。太郎も私を認めるようになった。
 太郎は愛犬ラックとも仲がよかった。
 トンビと犬のユニークなコラボである。およそ前代未聞だろう。
 ラックにとっても、太郎は見つけたときから、私と同じ「自分の仲間」なのであった。太郎はラックの背中に乗って遊び、ラックは太郎をいとおしげに見つめ・・・太郎は、どんどん大きくなっていった。
 トンビの太郎は、他の犬やネコなどが近づいてくると、羽を大きく広げて「ピー」「ピー」とおこって見せるが、ラックとは仲がよかった。
 鳥の成長は早い。2か月もたつと、太郎は大きな羽をばたつかせて飛び立つようになった。やがて悠然と天空を舞い、名を呼ぶと、舞い降りてきては「クルウ」「クルウ」と喉を鳴らした。このことが島根新聞に報道された。
 私は〝トビ少年〟として写真付の大きな記事になった。地元紙ならではの心温まる記事であった。数年後、私の名は「大学合格者一覧」でまた島根新聞に載ることになるが、このときの感激には代えがたいものがあった。
 太郎の嬉しいとき、悲しいとき、また怒ったときが、私には、その鳴き声だけでわかるようになった。
 太郎は、やがて自然に帰っていった。高く飛んで、もはや帰らなかったのである。不思議に、そのとき、その日の記憶はあいまいなのだが、私には虚しさや悲しみはなかった。
 太郎はどこにいようと、永遠に私の仲間だからであった。
 無意識のうちに、私はそう確信していたのだろう。ただラックはその後も鼻を鳴らし、ときに悲しげに空を見つめたりした。少年時代のなつかしい思い出である。

 

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7 県立江津高校の第2期生

 昭和34年の4月、私は島根県立江津高校(現校長、第19代・泉雄二郎氏)に入学した。前年に新設されたばかりの高校で、私はその第2期生であった。1つ年長の1期生には、〝美男子〟で有名な長兄がいた。
 新設校ということもあり、江津高校は受験すれば、だれでも合格できたのだが、それでも将来を見据えた希望進路によるいくつかのクラス分けがあり、大学に行く気のなかった私は就職組(第2組)にはいった。
 1組は女生徒ばかりの家庭科組であり、3組は文科系の大学受験組、4組は理工系の大学受験組と4つに分かれていた。1組50人の合計200人が同期生であった。
 学校設備はまだなにも整っておらず、グラウンドなどは、整地も終わらぬ凸凹状態であった。石ころや木屑もざらで、思わぬところに切り株があったりした。それらをいちいち取り除いては、手分けして地均らししていった。
 それが一種の〝手作りの〟愛校感覚になった。
 校門を巣立つこと、すでに50年余…少しも衰えぬ私の強い愛校心も、その根拠はもっぱらここにあるような気がする。
 江津高校は平成20年に創立50周年をむかえた。
 いま、泉校長の下、次の50年へのさらなる飛躍にむけて、先生方・PTA(会長舟木正氏)一丸となって努力・奮闘しておられるようだ。まことに喜ばしい。
 江津高校の校訓は「思慮・高邁・貫徹」であったと思う。
 強く意識したわけではないが、このことばは折々、さまざまの場で私の脳裏をかすめてきた。思い返せば、じつに誇るべきスローガンではないか。これを日々意識しながら育った生徒らが、次代を担う「良き青年」にならないはずがない。私はそれを信じている。
 聞けば、進学実績も〝まあまあ〟なのではないか。
 地方の国立大学をはじめ東京6大学にも、毎年確実に合格者を出しているようだ。わが社にも、明るく、さわやか、それでいて、自分の目標達成に〝貪欲なエネルギー〟をもった「後輩」が欲しいものだ、とかねがね思っている。
 そのくせ・・・(面はゆく、まさに〝そのくせ〟なのだが)わが第2組、就職組の50人は勉強がきらいな者ばかりで、授業をさぼっては遊んでばかりいた。
 いきおい他校生とのけんかも多くなった。私はけんかのために、いつもポケットに自転車の〝チェーン〟をもって登校していた。
 みなエネルギーが有り余っていた。だから、他校の不良どもと、いつもけんかばかりしていた。新設校の気安さからか、それともなにがしかの気後れからか、ともかく他校生を見れば、けんかしたくなるのである。
 理由などいらない。訳など、ない。
 学生帽はグリス(油)でテカテカにし、白い靴をはくのに、自分だけ黒い靴をはいて校内を歩いていた。一目で〝不良〟とわかる格好をしていた。担当の原田先生も、困りはてていた。
 それが青春・・・? と居直ったわけではない。背はあまり伸びず、相変わらずの小柄だったが、中学時代に眠っていた「荒ぶる心」が、またむくむくと頭をもたげたのである。
 私はいつしか、校内の〝札ツキ〟の1人になっていた。

 

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8 出世頭は警視庁本部長

 その不良仲間の1人に、最上孝雄君がいる。
 最上君は仲間の出世頭で、最後は警視庁の第7方面本部長にまでなったしっかり者である。落ち着きと肝の太さは当時からすぐれたものがあったが、みなとワイワイやりながらも、要所はいつもきちんと押さえているのである。
 警察は上意下達の組織とはいえ、いや、それだからこそかえって組織を束ね、上意を徹底させる指導力には、時に民間以上の非凡なものが求められよう。業種の異なる会社と、何100人もの従業員をかかえる私には、それがよくわかる。
 最上君はそれをやり遂げ、多くのライバルの中から頭角を現したのである。立派なものである。なんの実績もない、新設2期目の田舎の高校出の〝元不良〟が、本庁の本部長である。
 偉業であり、また珍事であり、そこには、思いやるに余りある努力や苦労があったにちがいない。まことにわが高校の誇りというにふさわしい。後日、私が警備業を始めてから「なにか大きなトラブルがあったときには、最上君に相談できる」という、大きな心の支えになったことは、ありがたいことであった。
 高校でも部活は体操部にはいった。
 水泳も夏には毎日練習したが、勉強にはいま一歩、身がはいらなかった。いま思えば15歳、高校入学の時点で、早々と「大学には行かない」と決めてしまったことが、あるいは影響しているのかもしれなかったが、気づくべきもなかった。
 ならば、就職をしたいという明確な意思はあったのかといえば、それもまたなかった。
 あそこの会社にはいりたい、あそこで出世をし、こんな人生を送りたい・・・というような未来図も、そのときの私にはなに一つなかった。
 それでも秋の運動会では、グラウンドの中央につくった鉄棒で得意の大車輪を披露し、ひとり大喝采を浴びたりした。中学のときから鍛えぬいた私の技巧は、生来の敏捷性と平衡感覚に、さらに磨きがかかり、私を十分に満足させた。
 しかし、残念ながら勉強の成績は、50人中の48番、後ろから数えて3番目の体たらくであった。
 だから私はテスト期間中になると、鉛筆1本と消しゴムだけを持って教室にはいり、だれよりも早く答案用紙を提出した。見ている教師もなにもいわなかった。答案用紙の半分以上が白紙だったのは、いうまでもない。
 学校を抜け出した私は、そのまま海に向かった。
 日本海の砂浜はいつ見てもきらきらと輝き、その輝きは私の心を癒した。深奥の鬱屈がかき消え、晴れやかな広がりが満ちていくのが分かった。テスト期間中が一番気楽であった。
 破損し、打ち捨てられた伝馬船を見つけたのも、そんなときであった。

 

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9 八洲男には手がつけられない…と

 いつ漂着したのか、伝馬船は船底が大きくえぐれて砂浜に乗り上げていた。
 全長5メートル、幅2メートルに及ぶ堂々たる代物である。直せば使える。いや、直したい・・・私は、そう思い、即座に決心した。
 伝馬船は小荷物の運搬や、沖の大船(例えば千石船や四百石船)と陸地をむすぶはしけのことである。ものの本には、幕府から京・大坂を結ぶべく、その開鑿を請け負った豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が、底浅の高瀬川の運航に適するように平底船を考案したとある。
 いずれにせよ、北前船交易の盛んな江戸時代には、さしずめ江津の港はその拠点の1つとして、ひしめく伝馬船であふれ返っていたにちがいない。
 これは江津に生まれ育った者なら、だれでも知っていることだが、それを思えばこそ、破損し遺棄された伝馬船の残骸は、いかにも無惨であった。
 私は1人で修復を始めた。
 母がつくってくれた弁当をもって、学校には行かずに毎日砂浜に通うのである。港とは距離のある朝方の砂浜は人っ子ひとりおらず、ただ打ち寄せる単調な波音だけが、しじまを破っていた。
 それを聞きつつ、私は近くで使える廃材を探してきては、壊れた船底にそれを打ちつけて修理をした。その繰り返し・・・。
 母の弁当も、ひとしおうまかった。ほんとうである。心の片隅に母への〝後ろめたさ〟があったからだろう。同じものなのに、ほんとうにおいしかった。
 ともあれ、孤軍奮闘は実り、ついに〝私の伝馬船〟が何とか進水できるまでになった。
 そうなれば、まずは祝いである。私はさっそく不良仲間を集め、〝宴会〟を開いて(・・・酒を飲み)盛大な進水式をやった。
 (じつはこのとき、高校生があつまって酒を呑んでいると母に知れ、大層おこられたのだが、父は「それくらいの元気があってもよい」ともいっていた)。
 私のまぶたに、いまも焼きつく感動の光景だ。
 母はもちろん、私が学校に行っているものとばかり思っていたのだが、私は船底から浸水する水を掻きだしながら、その後も伝馬船を漕ぎ、沖に出て魚釣りをし、またもぐってはカキを獲る毎日だった。
 ときには友人を乗せ、また夜は沖のかがり火を頼りにイカ釣り船団のかたわらに行き、コバンザメのように、たくさんのイカを釣り上げては持って帰った。人のかがり火をちゃっかり利用する便乗商法である。
 もっとも仲間はその間も、船底の穴から漏れ入る海水を懸命に掬ったりして、とても釣りどころではなかった。浸水が速く、船の半分近くが海水に浸かったまま、イカを釣りつづけたこともあった。
 イカは、よく釣れた。私の稼ぎも順調だった。釣ったイカを、母は庭に干してイカの干物にしてくれた。両親は学校から何度も呼び出されては、私の代わりに叱られていた。
 「八洲男には手がつけられない・・・」両親は半ばあきらめ顔であった。私は毎日、日本海の海岸で愛犬ラックと一晩中、焚き火をして遊んでいた。

 

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10 突然の初恋、その名はフジワラ・ジュンコ

 高校3年となり、卒業のときは否応なく近づいてきた。
 就職組のわがクラスも、ほとんどの者が、一流企業や名の通った中堅企業に決まっていた。高度成長期である。いまからは想像もつかないが、当時の高卒者は、どこでも〝金の卵〟であった。
 国鉄(現JR 各社)や電電公社(現NTT)といった準国営の独占企業に内定した者もいた。彼らは教室内で、うれしそうにその成果を確認しあった。
 しかし、私には就職先の案内さえなかった。
 不良とレッテルを張られ、成績は50人中の48番。だれを恨むでもない。みな、この自分が招き寄せた現実なのである。
 そんなある日、学校の廊下で、1学年下のかわいい女生徒と出会い、強く惹きつけられた。一目惚れである。
 私は早速その名を調べて、彼女が藤原順子さんであることを知った。フジワラ・ジュンコ・・・その心地よい響きも、私を酔わせるに十分であった。
 私は何度もその名を口ずさみ、毎日逢いたいために、彼女がいつも通る廊下の前にずっと立ったりした。突然の初恋に、完全に頭に血がのぼっていたのだろう。私は、就職の斡旋さえしてもらえない学校の問題児だったのに。
 それが評判にならぬはずはない。〝不良の初恋〟は、またたくまに学校中を駆けめぐった。私には、そんなことさえ耳にはいらなかったが、しかし、その現実は・・・私は顔を合わせても、彼女に声さえかけられない〝ウブ男〟なのであった。それでも、日々逢いたい気持ちは強くなり、私はとうとう母に留年を希望した。
 「もう1年、高校に残りたい・・・」私の突然の申し出に、母は驚き不審がった。私はそれを承知で、強引に頼み込んだ。
 母は、はじめ拒否していたが、ついに私の懇請に負けて、担任の原田先生と学校長に、お願いに行ってくれた。
 結果は・・・当然のように〝不可〟であった。
 校長らは〝不良の初恋〟事件を知っていたのかもしれない。あるいはまた、こんな問題児の世話を、あと1年もやらされるのはかなわない、とでも考えたのか。
 いずれにせよ、わたしは退路を断たれたのであった。

 

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11 お前は東京へ出ろ、東京でがんばれ

 卒業しなくてはならない。しかし就職は決まっていない。私はとほうにくれた。そのとき、ある雑誌を見るともなく見ていたら、〝ブラジル移民大成功〟の見出しと記事が飛び込んできた。私の夢は一瞬にしてブラジルの大地に飛んだ。
 行きたい。あの大平原を耕して、自分も大成功したい。
 じつに単純なのである。
 その思いはつのり、早速、関係先にブラジル「コチヤ産業」の移民申込みパンフレットを送ってもらった。「コチヤ産業」は、日本人移民が大農園を経営するなど大成功している組合であった。
 夢をふくらませてパンフレットを読んだ。そこに「色盲は採用できない」と書いてあった。私は赤緑の色盲であった。ブラジル移民の夢は、たった数日ではかなく消えた(30年後に私は「行かなくてよかった」と思うようになる)。
 昭和37年の年も改まったころ、担任の原田先生からお呼びがかかった。(先生は、やはり私のことも気にかけてくれていたのだ!) 会うなり先生は、「お前は東京へ出ろ、東京でがんばれ」と肩をたたいてくれた。なんでも、江津市出身の社長が経営している、日本橋馬喰町の小さな文房具卸会社で、若い新入社員を求めているというのであった。
 社名は「ベニスブランドの秀吉」だという。
 小さいながらも株式会社である。私はその気になった。やっと就職が内定した。蛍の光を聞きながら、私は卒業した。
 それからは東京行きの準備に追われた。
 昭和37年3月15日、私はカバン2つを持ち、母と郷里の江津駅のプラットホームに立っていた。集団就職の夜行列車「いづも号」を待つためである。
 たがいに交わす言葉とてなかったが、母との距離が急速にちぢまるのを感じていた。何を話したという記憶はない。しかし、たしかに母子だとの思いは残った。
 「いづも号」は隣町の浜田始発であった。
 東京まで約20時間の寝台列車で、途中の各駅から関西、関東地区に就職する若者たちが大勢乗ってくることになっていた。
 列車が到着し、乗りこむなり私は窓を開けた。
 母は近づき手を伸べたが、私は恥ずかしく触れることができなかった。ベルが鳴った。母はうなずき、遠慮げに手をふった。
 寂しそうであった。
 列車は速度を増した。母は手をふりつづける。
 やがて、その小さなからだは、遠ざかるシルエットになった。それが豆つぶのようになったころ、列車は大きくカーブを描いて母の姿を消したが、私は心中に、いよいよ大きくなる母を追いつつ、過ぎ行く山河のかなたを見つめつづけた。
 涙が流れた。
 その母も、いまは亡い。
 その思いのよぎるだけで、私の胸はいつも熱くいっぱいになる。
 翌朝7時、「いづも号」は東京駅に着いた。私の東京での生活が、このときから始まるのである。弱冠18歳であった。

 
3匹の“ 素浪人”。右端が私
 
 
  ああ、憧れの明大和泉校舎